2020-04-01 11:22:19
術後のキヲク②
日記
・首リンパのドレーン
・高熱
・痰
術後数日、容赦なく体力と精神力を削っていった敵はこの3つだ。
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手術後初めての夜を迎える前
18時に離床を迎えた。
少し高めのベッドから降り、
点滴スタンドをつかみ難なく立ち上がる。
その足でトイレに行くことにした。
排尿時には変わらず激痛が走った。
排尿後手を洗う。
手を洗いながら鏡を見た。
左顎は手術の影響でパンパンに腫れ上がり
顔や首には所々いつ付いたのかわからない血の跡。
口を開けて見てみると、舌はおよそ左半分なくなっており切り口には
エメラルドグリーンのシートが付けられている。
目にはクマ、無精髭が生え始めている。
フライドチキン屋さんの店頭に立っている白髪メガネの老人の人形の方がよっぽど人間らしい顔をしていた。
不幸中の幸いか、舌ったらずな部分はあるが、
手術直後でも会話は意思疎通に支障は来してない。
その後は寝ながらでも簡単に見れるよう、天井近くに備え付けられたテレビを見ることなく、
淡々と眠り続けた。
2〜3時間ごと目を覚ましながら。
常に10本近くの管を身体につけられた状態と
滝のように流れてくる汗では
なかなか熟睡もできない。
そして目が覚めるごとに嫁が自転車で15分の自宅へ、伯母が静岡へと帰路に着く。
ただ、母だけは朝まで付き添ってくれた。
20代も終わりの年だったが正直母が付き添ってくれたのは嫁よりも心強かった。
それは母が看護師として普段働いていたことも理由の一つなのかもしれない。
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朝になり、テレビをつけてみた。
ワイドショーは米朝の関係悪化、千葉のPTA会長の女児殺害のニュースを大々的にとりあげている。
社会は私がいなくても、仮に私がいなくなっても動き続けている。
なんだか世間から取り残された気がした。
でも戻りたいとは思えない。
痰、高熱、不眠。
ガンは最後の抵抗とばかりに、私に容赦ない置き土産を残していったから、気力はもう残っていない。
昼ごろ、一般病棟への転床の時間。
ナースに押してもらう車椅子で病棟間を移動する際に2日ぶりに外の空気を吸った。
春の日差しは暖かくそれでいて、
自分のテンションとは正反対。
ただ、ただ気候が憎たらしい。
ナースは移動中、気を使い天気などたわいのない話を振ってくれたが、私は答える元気がなく、
終始無言だった。
今考えるととても悪いことをした。
病棟は大部屋だった。
着いてから少し眠る。
そして15時頃目を覚ます。
精神的に追い詰められていた私は、
他の3人が立てる物音が気に食わなかった。
もちろん、他の患者さんに面と向かって指摘したりはしないが、
気が立っていたことは確かだ。
キツネにでもとりつかれたような顔をしていたのだろう、
母が師長さんと交渉し、無料の個室へと移してくれた。
どのような交渉をしたのかはわからない、
個室へ移ると幾分気持ちが和らいだ。
大部屋から個室へと移るベッドの上で
病気になってから2度目の涙を流した。
声を上げて泣いたはずだ。
これ以降は病気関係では泣いていない。
2cmにも満たないガン細胞に、
ズタズタに心を引き裂かれ、
周りに気を遣わせ面倒かけている自分が
情けなくて仕方がない。
そして悔しい。
1度目の涙は告知を受けた週の週末。
日が暮れ始めた頃鏡で患部を確認していた姿を
嫁が見つけて大泣きしたから、
もらい泣きしてしまった。
告知直後も病院から家に帰ると嫁は泣いていたが、
その時は私は涙が出なかった。
それより先の対応を考えなければならなかった。
報告する人、範囲、休みの手配など。
悲しい感情ではなくやるべきことを列挙していた。
その日は午前休ではあったもののそのまま普段と変わらず仕事に行った。
18時頃になると母も静岡へと帰っていった。
こうして術後初めて1人になった私は、
個室でただただ、テレビを眺めながら時間をつぶす。見てはいない、眺めていた。
記憶力には自信のある私だが、
この時なんの番組を見ていたかは覚えていない。
消灯後、回ってきたナースが、電気もついていない病室のソファーで自失茫然の状態で1点を見つめていた私にこう提案する。
「睡眠導入剤打ちましょう」
体は疲れている、頭も眠りたい。
ただ、気が立ち、自律神経が過敏に活性化していたため、
全く眠れなかったことに、やっと気づいた。
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