2020-04-21 22:55:13
術後のキヲク③
日記
病は気からという言葉がある。
でも逆もまた真なり。と思った入院生活前半だった。
どちらにしろ、フィジカルとメンタルは表裏一体の関係のようだ。メビウスの輪のように。
=======
2017年4月14日金。(術後2日目)
朝6時ちょうどに目が覚めた。
起きると冷蔵庫の中にいるような寒さだ。
それもそのはず、パジャマは本当に絞れるほど汗で濡れており、掛け布団のカバーからシーツまで、汗でぐちゃぐちゃの状態。
急いでナースコールのボタンに手を掛ける。
駆けつけてきたナースによって手際良くシーツが変えられ、並行して準備された体を拭くタオルで全身の汗を拭きとった。
熱を測ると38.6。どうりで汗を掻くわけだ。
7:30にもなると軽やかなアマリリスのメロディとともに朝食が運ばれてくる。
もちろん、私の分はない。
気を紛らわすために談話室へ行ってスマホでネットサーフィンをする。
やはりどうしても気になってしまう病気の予後のこと。
舌ガン、転移、ステージこんなネガティブワードを打ち込み、出てくるのは体験談、ブログ。
ステージ4で亡くなるまでの闘病の様子を書いたもの、
ステージ1でも後発転移ののちに亡くなった方。
出てくるページほぼ全て私のメンタルを打ち砕くものばかり。
不安になってやめた。
これからどうなるのか。
現在の結果がほぼ見えた状況からすれば
なんでウジウジしていたんだろうと思えるが
当時は、5年生存率95%でも、
生存率=完治率じゃないよね。
つまり、転移して全身に広がって5年と1日目に亡くなっても、生存率95%にカウントされるわな。
なんて穿った見方をしていた。
午後3時を迎える。
術後48時間経過。
3日ぶりに口から飲食する時間がやってきた。
病室でナースが持ってきてくれた真水を口にする。
術前と変わらない感覚で勢いよく口に入れると、
ダイレクトに喉に入りむせた。
舌は無意識のうちに口に入ったものをコントロールし、
優しく喉の奥に送り込む機能を有するとナースは言った。
一部舌が欠損した状態での飲食に慣れるには1〜2週間かかるだろうとのことだった。
水を飲むことで多少の感動を味わえるのかと思いきや、現実を突きつけられただけだった。
ガン=死。
一般の人はこんなイメージを持っている人がほとんどだとおもう。
ガン完治や克服なんて報道やドキュメンタリーはあまり見かけないない。
告知された時、死ぬんだと思った。
仕事は死ぬまでするつもりだった。
もちろん生きれるなら仕事をするつもりだった。
だから私はガンに罹患していることを隠すことに決めた。
「あの人は近いうちに死ぬ」
「ガンかわいそう」
と言った先入観を持って接されるのが嫌だったから。
いつも飲みに行く会社の仲のいい先輩、後輩、
高校の親友と呼べる友人、
中学、大学の仲間にも、
兄弟にでさえ、隠した。
だからこの時間非常に孤独だった。
たまにくるたわいもないLINEのやりとりにも返信できず、
どうしようもない不安を吐露することもできず
ただ手持ち無沙汰な時間を過ごした。
翌日土曜の朝、初めて食事が出た。
おかゆをさらに液体にした重湯と呼ばれる流動食。主菜も副菜も全て液体状だった。
成人男性摂取カロリーに近づけるため、高カロリー高タンパクのゼリーとドリンクも付いてきた。
私はスプーンですくって食べているのがめんどくさくなり、飲み干した。
大して美味しくもなく、おもろしみもない、楽しみもない。
ただただ、栄養摂取の作業。
また、食事という第一歩を踏み出したことで
感動を味わえるのかと思ったが、
うまく口の中の液体をコントロールできない舌に苛立ちを覚えただけだった。
昼ごろ、伯母が病室やってきた。
3日前術後にひょっこり現れてまだ日は浅い。
「静岡からご苦労なこっちゃ。」
と思った。
嬉しくも悲しくもなかった。
私は幼少の頃から特異伯母と仲が良い。
祖父母、両親ととも一緒に住んでいた時期があり、
伯母は未婚で子どももいないことから
私を実子のように、かわいがってくれた。
過去には海外にも2人で出掛けたこともある、
第三の親のような存在だ。
だからなんの気を使うこともなく、
病院の個室という空間を共有しただけで、
好きなようにテレビを見たり、
外を眺めたりしていた。
なんの会話をしたのかは覚えていない。
ただ、気持ちの落ち込みがはれることはなく
熱と
たまに出る痰と
体につけられた管による不自由さと闘っていた
ありがとう!をしている会員