sarah
自己紹介
原発不明がんから始まり、発覚当時からステージ4。だけどまだ頑張ってます。
応援している会員は74人です
応援している会員
年齢
51
性別
女性
住まい
東京都
病種(大区分)
胸部
病種(小区分)
乳がん
病種(備考)
ステージ
ステージ4
告知年月日
2012年06月01日
通院・入院先の病院
都立駒込病院
現在の状況
通院治療中
治療歴
職業
その他
配偶者
有り
こども
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投稿
今日の気分
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皆さんの応援のお陰で?
余命宣告1月。最終薬イブランス。どうにか、私の癌にイブランスは間に合ってくれました。それどころか、息子の高校生活の話まで聞かせてもらえる事ができ、夏休みには車椅子を使い、兼ねてから子どもたちが行きたがっていた、石垣島へ旅行までする事ができました。✈ これも、みなさんが諦めないで!大丈夫と励ましてくださったおかけです。 腫瘍マーカーは5ヶ月程順調に下がってくれましたが、今はまた上り調子です。 主治医とも相談し、腫瘍マーカーに一喜一憂するのではなく、自分の身体と話をしながら毎日過ごそうと言う事になりました。 ここからはおまけの人生、したい時にしたい事を子どもたちにしてあげたい事をゆっくりコツコツでいいからしてあげれたらいいなぁ〜と思っています。 皆さんも、絶対なんて、医療にはありません。毎日心に余裕を持ってしたい事をしましょう!!!なんてたって自分の人生一度だけですから。 本当に色々と応援ありがとうございました♥ お返事遅くなり申し訳ありませんでした?
作成日 : 2018-09-10 01:08:13
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とうとう余命宣告…
6年前に乳がんのステージ4が発覚し、私の主治医からは今まで余命の話なんてなかった。その時はキチンとお話してくれると信頼関係も築けていた。 いつもいつもまだお薬はあるから大丈夫と励まし続けてくれた主治医。 私の心が折れそうになっても一緒に診察室で泣いてくれた主治医。 その先生が目にいっぱい涙をためて、こんな主治医でごめんなさいと。12月15日発売のイブランス以外、選択肢がなくなってしまった。これが効かなければもう一月ぐらいの命かもしれないと正直にお話してくださいました。 自分でもなんとなく分かっていた。ここのところやけに体調不良気味だったし、肝臓部分が硬く外から触れるようになってきていた。 ただ、何故今なのか… 下の子は中学3年生これから入試試験に突入する。もちろん、今まで医療費がかかり、私立なんて以ての外。公立に合格してほしい。 隠しても仕方ない事なので今まですべて子どもたちにも病状は伝えてきた。 あと3ヶ月どうにか持ちこたえたい。 子どもの受験の邪魔はしたくない。 どうか、少しの間で構いません。イブランスが効きますように。 できるなら、合格発表を見に行く体力が残されていますように。 仕方ない事とはいえ、悔しくてたまらない。 もう、死ぬことに対して恐怖感はなくなってくれたけど、あともう少し、私にとって一日一日が長くて短い。 毎朝祈るようにイブランスを飲んでいる。
作成日 : 2017-12-20 16:36:02
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体力は大事ですね。三度目の放射線!
心不全になって。どうにか利尿剤などのお薬のお陰で退院できました。 しかし、その後、ヒスロンやゼローダ、アフィニトールとアロマシンなど色々なお薬を試していきました。 体重計に乗るたびに体重は減る一方。とうとう50キロあったのが32キロまで減ってしまいました。 体重がある時は抗がん剤をしても好中球は下がっても許容範囲内でキチンとエビデンス通りに治療可能でした。 体重が下がってからは、好中球が低いから今回はやめておこうの繰り返しでがんを押さえつけるのが難しくなりました。 そんな中、首がおかしいなぁ、上を向いてガラガラとうがいがしにくいと思ったら頚椎にも転移が多数見つかり、3度目の放射線を行う事になりました。 この頚椎の放射線は曲者で、口の中を放射線が通るものだから、口の中は口内炎だらけ。痛くて何も食べれす、カロナールを一日に10錠のんでも間に合いませんでした。漢方薬や口の中を痺れさせてわからないようにして食べる薬など色々試しました。放射線を、6回行った時点で泣きが入り、先生にもう死んでもいいから放射線をやめると伝えてしまいました。 しかし、先生はせっかく頑張った意味がなくなるなど私を説得しどうにか10回最後までおこなえました。看護師さんや先生の私への説得は大変だったと思います。でもお陰で首は以前のように動くようになりました。今思うと途中で投げ出さなくて良かったです。 しかし、体力はドンドンなくなってしまいました。 そこにどうにか、アフィニトールとアロマシンが効いてくれて8ヶ月疲れやすく、もう働く事はできなくなったけど家族と共に生活を営めていました。体重も37キロまで回復し、喜んでいました。 それなのにまた、がんが勢力を戻しはじめ、肝転移が多数みられ、お腹の右脇腹を触ると塊をかんじるようになってしまいこの11月末緊急入院する事となってしまいました(ToT)
作成日 : 2017-12-15 13:24:59
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AC療法で心不全。
規定回数のAC療法を6回終え、その後はハラベンで対応していました。 しかし、どうも、息切れが激しいし歩くのも辛い。大きく深呼吸もしにくいなぁと思っていました。 そこにきて夜中変な咳も出るようになり、次回の診察日を待たずに通院しました。すると、肺に水がたまっており、心臓のポンプが20数%しか動いてない。心不全で絶対安静。心臓に関しては駒込病院では十分な治療ができないということで、先生と共に救急車で三井記念病院へ送られてしまいました。 そこでの判定もアリゾナシンの副作用により心筋拡張、心不全でした。 意外とこの副作用にかかってる方はいらっしゃるようです。皆さんもお気をつけください。 自分では、前日まで仕事もしていたのに急に絶対安静と集中治療室へと運ばれてしまいました。 家族と共に受けた説明では、治すには拡張した心臓は心臓移植しか、治療法はないとの事。しかもガン4期の私は移植対象外。安静の元、酸素吸入や、利尿剤やらでどうにか、持ちなおすことができました。 しかし、がんに続けて心臓にまで病気を持つことになり、お先真っ暗です。 どうにか一月ちょっとで退院でき、昔のように走ったり、運動はできなくなりましたが、どうにか日常生活ができていることに感謝の日々です。 まだまだ、こどもを残して逝きたくないと心を鬼にしています。 お陰で病院に行く日は血液検査して、乳腺外科行き、抗がん剤をし、循環器内科ついでに神経内科まで受けるフルコースへとなってしまいました。
作成日 : 2017-12-03 21:07:00
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欲出してはいけないなぁ〜
治験の薬で調子がよかった私は、週3日1日4時間のお仕事で間に合っていたのに、週4日1日6時間の派遣へと変更してしまいました。元の職場は居心地も良かったのに、働けるうちに貯金しようと欲をだしてしまったのです。 転職後、数ヶ月し、治験の薬が効かなくなり、AC療法を行う事になりました。いままで化学療法をしながら辛いときもあったものの仕事と治療を両立していました。しかし、このAC療法では副作用がひどく働ける状態ではありませんでした。 安易な考えで転職してしまい、結局は貯金どころか、仕事をやめるはめになってしまいました。 しかし、悔やんでも仕方ない事なので今回はゆっくり休み、落ち着いてから職探しをする事にしました。
作成日 : 2017-12-02 08:42:54
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化学療法開始!治験を選ぶ
ホルモン療法が効かなくなり、肝臓、骨に多数の転移が見つかりました。 化学療法で一度小さくしないと命に関わるという事でした。 先生からは 1.ウイークリーパクリタキセル、 2.抗がん薬内包高分子NK105(当時は第三相臨の治験。現在は治験終了し、治験は失敗と発表されています) 3.タキソテール 以上3つの提案があり、私は治験に参加する事に決めました。 新しい薬の方が効く様に思えたのです。甘いですね。 初めは、順調にガンも小さくなってくれました。そうなるともしかしたら全部なくなるかも…と淡い期待を持っていました。でもガンっていつもしつこいですね、なくなるどころか10ヶ月もするとまたもや復活してきてくれたのです。そうなると治験も終了。他の抗がん剤に変更する事になりました。 治験に参加した時はパクリタキセルかNK105にあたるかは選べませんでした。普通のパクリタキセルの方よりも少しだけ副作用は軽かったようです。仕事も週3日続けれて半年ほど経った時には髪も生えてきて。抗がん剤してても普通の生活ができてる喜びを感じてただけに。3週連続して点滴、1週休みのサイクルで10ヶ月程でアウト。抗がん剤はこんなものなんだ。ということを身にしみて感じました。そして後に10ヶ月は長い方であることも知り、自分の勉強不足を痛感しました。
作成日 : 2017-11-09 23:39:09
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ホルモン療法との別れ
整形外科のMRIで脊髄に転移があることが分かり、全身を調べるためCTを受けることになりました。 嫌な予感は当たるもので1年もたたない間に転移が多数見られ、原発癌も大きくなっていました。 リュープリンとタモキシフェンでの治療を諦め、レトロゾームに切り替えてみたものの効果がなかった事から等々、化学療法へと移行する事になりました。 せっかく、ホルモン療法にも慣れ、普通の生活を取り戻して喜んでいたのに。またもやガンに奇襲攻撃をかけられてしまい、少し鬱が復活!してしまいました。 ホルモン療法で、副作用が辛い等と言っていましたが化学療法を受けて、今までの副作用は何だったの?大したことないじゃない…私はまたもや情けない心の人になってしまいました。
作成日 : 2017-10-24 23:36:12
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放射線、再照射!
再手術後は快調な日々をおくっていた私。また、普通の生活に幸せを感じていたのですが、ひと月もすると右足に違和感が。心臓が脈をうつのにあわせて、右足になんとも表現できない違和感。ジーン、ジーンでもなく成長痛の様な表現できない違和感。当時、担当の整形外科の先生は初診の先生が転勤した為、初診の先生の指導医の先生に代わっていました。その先生は私の言葉足らずの説明にも、よーく耳を傾けてくださり、MRIを急遽取ることになりました。病院のMRIは予約でいっぱいだった為、外部の医療機関にとりに行く事になりました。本当は同一医療機関の方が高額療養費で助かるのですが、そんな事言っている場合ではありませんでした。今度は脊椎ではなく、脊髄の中に転移発覚!前回放射線を照射した胸椎の下部分だったためにすぐに再照射ができました。私のつたない説明を信じて、急いで処理してくださった先生には感謝です。また、私の鬱を気にして入院中にこの本を読んでみたらと本を貸してくださったりもしました。ただ、ほんのちょっとのその行為で私は未だ見捨てられてない。生きれるんだという気持ちにさせていただきました。しかし、何度当てても放射線酔をしてしまいます。放射線は苦手です。なかなか普通の生活は長続きしないものです。
作成日 : 2017-10-05 23:53:43
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再入院、再手術
3週間もの間、消毒に毎日通い、抗生剤を飲み続けましたが、体に埋め込んだチタンについてしまった菌はなくなりませんでした。毎日通った頑張りも虚しく、わたしの、ワガママに付き合ってくださった先生には頭が下がる思いでした。入院し、片側の固定部分だけ取り除くことになりました。前回の手術があまりに痛かったので、ビビってしまった私ですが、外すだけなので、それ程ツライものではありませんでした。片側だけでも固定はできているので大丈夫ということでした。原因菌はアクネ菌とそこらへんにいくらでもいる日和見菌でした。しかし、日和見菌故に、点滴してもなかなか私のCRPは下がらず1ヶ月もの入院期間を要してしまいました。途中、バンコマイシンにアレルギーをおこしたりしましたが、ようやくCRPも落ち着き、その後は背中の変な違和感もなくなり、快適になり、オキシコンチンなしで生活をできるまでになりました。派遣先も1ヶ月待って下さりいい事づくめでした。しかし、ガンというものはなかなか幸せ期間をくださらないもので、一月後右足に違和感を感じるようになったのでした。
作成日 : 2017-09-29 14:51:54
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つかの間の普通の生活
週3日だけどパートをはじめ、普通の生活(見た目はずっと普通の人だったけど)をできることに喜びを感じる毎日でした。しかし、背中の違和感は常に感じていました。ホルモン療法をはじめ、少しだけの副作用。でも、人並みの生活できるからそれでいい。と自分にいい聞かせていました。しかし、半年ほどたったある日ふと背中を触ってみるとボルトがあるところがプニプニしているのです。家族に見てもらっても赤くはないけどプニプニと中に何か入っているよう、気になりながらも数週間放っておきました。病院での診療の際、整形外科で見てもらうと、先生は矢継ぎ早にいつから、こんなになってた?焦って色々と質問してきます。普通の生活が出来る事に喜びを感じてた私は重大な事になってるとは思ってもなかったのです。チタンのボルトのところが何かしらの菌に冒されていて、すぐ、その場で切開、プニプニの正体は膿だったのです。先生は入院した方がいいと、言いましたが、やっと働きはじめたばかり、しかも、派遣、子どもたちをまた家に置いておく事を考えると目の前が真っ暗になり、吐き気をもよおし、診察室で倒れてしまいました。やはり、私は精神的に弱いとつくづく感じました。結局、日曜以外毎日消毒に通う事、何かあればすぐ入院する事を条件に毎日の病院通いがはじまりました。
作成日 : 2017-09-12 16:24:15
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入院生活を終え、新しい世界へ
背中の手術が終わり、痛かったら言ってくださいね。との看護師さん。その言葉に甘えて痛いと言うと痛み止めが点滴の管を通り入ってきます。一時間に一本と決まりがあるものの、毎時間痛いと言うと、入れてくれるのですが、反対に気分が悪くなります。寝返りがうてない為食事は母が食べさせてくれます。しかし早く良くなってほしい親心…仕方なくそれに答えなきゃと言う思いの自分。無理して食べて、吐いて。また看護師さんのお世話に。無理なものは無理とハッキリ言おう!相手の気持ちばかり考えてしまう自分に嫌気がさしました。リハビリし、前よりマシになった背中。歩ける喜び。微妙に残る違和感は諦めて。前を向こう。まだ生きている!何かしよう!派遣に登録し、週3日1日4時間働く事にしました。やっぱり外に出るって清々しい。生きてるって感じるようになり、鬱状態から脱出していきました。
作成日 : 2017-09-09 14:58:18
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脊椎固定術を受けに入院
背中の痛みが取れない私は背骨と背骨をつなぎ背骨の一部にセメントを入れる手術をすることに、なりました。その日の3番目の手術という事で6時過ぎに始まって終わったのは11時過ぎ。麻酔から覚めるときの一言が、もう、11時過ぎたよ、起きてください!でした。そんなに夜遅くまでかかるとは、ずっと待ってくれていた家族には感謝しきれません。また、よる遅くまで頑張ってくれた先生方はまた明日も朝から外来です。病院側が作ったスケジュールとはいえ、申し訳ない気持ちでいっぱいでした。しかし、起きた途端、背中は熱く、とても痛いのです!低侵襲の手術、背中の筋肉を切らないから早く退院できると聞いて安心しきってた私は、自分の考えの浅はかさを感じました。背中にドリルであなを何ヶ所も開けるのだから、痛いに決まってるはずです。それがわかっていなかったのです!
作成日 : 2017-09-04 00:23:14
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放射線をあてたものの…
転移先の脊椎は圧迫骨折してしまいましたが、上手に潰れてくれて、脊髄にはあまり影響は出なかったようです。放射線治療を行ったものの、右足にしびれがとれかけた様な違和感がずっと残っており、背中中がなんともいえない痛さが続いていました。今の整形外科の主治医の先生はとても良い先生なのですが、当時の先生は背中の痛みを訴えても、どこが痛いのか?骨が痛いのか?筋肉が痛いのか?筋か?と聞いてこられました。私はこれまで病気などほとんどした事もなく、聞かれても痛くてたまらいがどこの痛みかなんて分かりません。しかも、その先生からは痛いと言っても治すことなんてできないんだから。と言われてしまいました。その先生は若いからそれが精一杯だったのでしょう。しかし。私の心が折れてしまったのはおそらくその一言だったのだと思います。それからでした。死にたいと思うようになったのは。そして、これは背中の痛みを軽減するだけであって、治すための治療ではないが、背中の脊椎がグラグラしているので痛みがあるのなら、固定すれば和らぐかもしれない。という提案を受け、オキシコンチンを飲んでも痛かった私はその脊椎固定術の手術を受ける事にたのでした。
作成日 : 2017-09-01 14:53:39
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早く受診すればよかった神経科
私の主治医の先生は私の心の状態を心配して、何度も神経科を紹介します。と言ってくださいました。しかし私は神経…という言葉に違和感を感じ、様子を見ます。とお答えしていました。しかし、死にたい、死にたいと思うようになり、子どもたちに心配ばかりかけていられない。と思い、受診する事となりました。実際受診したら、先生はとても優しくて私の心を包み込んでくださいました。目から涙がこれでもかというぐらい溢れだしました。他人の前でこんなに泣いたのは生まれてはじめてでした。ほんの少しの、薬を頼るだけでこんなに私の心は良くなるんだ。なぜ拒んでいたのだろう。こんな事なら先生の薦めてくださる通り早く受診すれば良かったです。私の心はどんどん回復に向かいました。それと同時に一日4時間週3日の事務のパートも始めました。でも、なかなか順調にはいかないものですね…
作成日 : 2017-08-29 15:07:39
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色んな方々に支えられて。
私はがんになり入院するまでは、自分の知り合いには優しく出来ても、見ず知らずの方々に尽くすという気持ちは持ち合わせていませんでした。 しかし、たまたま私の担当になった看護師さんや担当の先生方、家族に支えられ。世の中には天使のような心を持ち合わせている人々がいて、赤の他人の私の事を気にかけ、親身になってくれてきる事を知りました。自分の心の狭さを痛感しました。 神経科のお薬にもたよりながら、当時小学生だった息子は私の顔を見る度に大丈夫?何かしようか?と言ってくれました。一番驚いたのは、トイレが汚れてるから掃除したいのでやり方教えてと息子が言ってきたことです。今まで何もかも姉や私に頼って何もしなかった子がいつの間にかどんどん成長していきました。上の子は反対に反抗期を通り越し、家の事を仕切ってやり始めました。そんな中私の心も少しずつですが、快方に向かいました。
作成日 : 2017-08-18 14:17:27
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神経科受診
入院して1週間がたった頃より、少しずつですが、動く事ができるようになり、寝たまま放射線をあてに行っていたのが、車いすへと代わり、退院前にはチョボチョボと歩けるようになってきました。でも相変わらず吐き気は変わりませんでした。少しでも歩けるならと無理を言って退院させてもらい、最後の2回の照射は通院で行いました。自宅に帰りたい一心で帰ったものの。なんでこんな事になったんだろう。もう、死んでしまいたいと泣く毎日でした。入院中お世話になった看護師さんの看護外来に行って話を聞いてもらっても大泣きで私の心はズタズタでした。とうとう乳腺外科の先生の紹介で神経科を受診することになりました。そこでもなぜこうなったのか?何も悪いことなどしてないのに。どうして私がと考えると涙が止まりませんでした。鬱になっていたのです。
作成日 : 2017-08-16 18:55:51
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入院生活のはじまり
やっとの事で病院に着き、車いすに乗ることができ安心したせいか、立ち上がる事が出来なくなってしまいました。転移している背骨が圧迫骨折を起こしたのです。その日の照射は諦め、入院生活がはじまりました。子どもの頃に入院したことはあるものの、物心ついて初めての入院生活です。看護師さんたちは忙しい中、毎日清拭してくださいました。放射線をあてに行く時は4人がかりでスライダーという滑らせて移動させるマットを使い私を移動ベットに移してくださいました。でも、その度に痛さの余り、痛い!と声をあげてしまい申し訳ない気持ちでいっぱいでした。でも、痛くて仕方なかったのです。歩けなくなり、私の鬱症状は益々悪化し、放射線酔いも加わり、毎日食べられずに吐く生活が始まりました。
作成日 : 2017-08-10 13:58:53
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放射線治療の開始?
私の場合、ステージ4で原発も小さく手術対応にはなりませんでした。 背骨が痛くて痛くて毎日コルセットを着用し、どうにか動けている状態でした。 まずは痛みの緩和の為にも、背骨に放射線3gryを10回当てる事となりました。 順調に事が運んで、通院治療で毎日通うはずだったのですが、1回目の治療に向かう途中、駅の駐輪場に自転車を止めた途端、背中に鋭い痛みを感じました。 はじめは歩けたのでどうにか電車に乗れたのですが、段々痛みが増し、とうとう、ヨチヨチ歩きしか出来なくなり、やっとの思いで途中駅で降り、そこからタクシーで病院に行きました。病院についた時はもう、ヨボヨボとしか歩けなくなっており、それを見た看護師さんが慌てて車いすを持ってきてくださいました。 どうにか病院まで着いてホッとしました。
作成日 : 2017-08-02 11:41:27
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乳がんが判明したものの
背骨の生検にて乳がんが判明しました。それにあわせて、乳腺を生理食塩水でふくらませながら、マンモトームを5人もの先生方で行い、やっとの事で原発を見つける事ができました。本来なら見つける事ができないくらい小さながん。それだけならステージ0のDICSに値するものでした。そんな小さながんが本来なら取ればおしまいぐらいの小さなものなのに、私の場合、もう、全身にがんの種を撒き散らしていたのでした。 乳がんは触ればわかる。発見しやすいもの。触ってもわからない小さなものがもう、全身に転移しているなんて… 私はそれだけ小さいなら、取れば良くなると安易に先生に尋ねましたが、その考えは甘く…それからは大変な日々に突入し、鬱を発症してしまいました。
作成日 : 2017-07-31 21:04:45
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やっとわかった病名!
私の乳がんは胸にしこりが確認されなかた為に初診から病院を転々とし、最後に紹介された都立駒込病院で背骨の生検によって、乳がんと判定されました。 それまで、6ヶ月の間背骨の痛みは増すばかり、背中に何か腫瘍はあるけど、全身探してもみつからない。 早くに病院に行き、初期に切れば治る。そればかりが当たり前でない事。いきなりステージ4となる場合もある事を知らせれました。ただその時は病名が分かっただけでうれしく、この後の事など気にしていない自分がいたのです…
作成日 : 2017-07-10 12:05:36