かおる
自己紹介
<がんの記録>
2018.10 MRIにて左臼後部に粘膜下腫瘤を指摘される。
「おそらく良性だけど念のため」と日帰り手術を勧められ、「良性なら手術しない」と断固断って、2005年から薦められていた奥歯1本の矯正を決意。
2019.05 息子の保育園入園を待って、復職&矯正スタート。
2019.12 歯が痛んだため歯科大を受診し、MRI撮影。
(痛みはMRIの撮影日より前に治まった。副鼻腔炎の影響が濃厚。)
「多分大丈夫だけど、技師さんは去年見つかった腫瘍が少し大きくなってるって言いよう。
もしもの場合、ここでは手術できんし、
念のため大きい病院で検査しておきませんか?」と言われました。
「一年前に断った日帰り手術は、もう免れないな」と覚悟し、良性腫瘍と思い込んで、
2020.01 紹介状とMRI画像を持参して転院。
「すみませんが、おそらく悪性です。
これから細胞診検査を行っていいですか。」は、青天の霹靂でした。
2020.01.15〜各種検査
2020.02.06 セカンドオピニオン
2020.03.13 入院
2020.03.17 手術 ( 耳鼻科+形成外科=10h )
腫瘍全摘、頸部郭清、左前腕遊離皮弁、鼠蹊部から前腕へ植皮。
(5月から矯正していた歯も上下セットで抜かれました)
2020.04.15 退院。
退院2日前に病理検査結果を聞き、ステージ4だと分かりました。
2020.05.14 こちらを知りました。
1月からずっと、この様な場所を探していました。
5才の娘、2才の息子のお陰で、毎日笑って過ごしています。
でも、1人になった途端に落ち込み、不安で潰れそうです。
もっと不安だろう夫に心配をかけたくないのに、
ここ最近ついネガティブな返答をしがちです。
今の幸せな毎日を、笑って過ごしたい。
これから少しでも長く、家族のそばにいたい。
今、みなさんの存在が、とても心強いです。
よろしくお願いします。
2020.05
〈追記〉
2020.06.03 追加治療で放射線30回スタート。
初回から体調不良で焦っていますが乗り切ります!
2020.07.14 無事に放射線終わりました。
ラストにCPの先輩akiraさんがお祝いに病院まで来て下さいました。
2020.08.05〜精神科受診。
処方薬服用スタート。
2020.11.01 京都→福岡へ引越
2020.11.27 療育センター受診。
子どもたちに自閉症スペクトラムの診断がおりました。「これで前進できる」とホッとしました。
2021.03.17 無事に手術から1年経過しました。
2022.03.17 無事に2年経過しました。
2023.03.17 無事に3年経過しました。
<CP友の会サポーターです?>
私が体験したことは、
・臼後部がん
(粘表皮がん/小唾液腺腫瘍)
・手術
(腫瘍摘出、左頸部郭清、左前腕遊離皮弁)
・1カ月入院(春)
・組織移植で麻痺した左腕のリハビリ
・開口訓練
・頭部放射線
・放射線宿酔
・適応障害(術後〜現在治療中)
・福岡市の就学相談
・福岡市の放課後等デイサービス探し
勉強中&気になることは、
・発達障がい
・来春小学生になる息子の進路
癒しは、
・海
・緑
・温泉
・図書館、文房具店、カフェ
・クラシック(ピアノソロ特に)
・エド・シーラン
・アロマ(娘の方がハマりがち)
・moomin、snoopy
・おしゃべり
子ども達の笑い声と笑顔が至福ですね。
浮き沈みの激しかったメンタルも、合う薬に出会い、家庭が安定し、安定してきた気がします?
2023.08.21追記
応援している会員は207人です
応援している会員
年齢
43
性別
女性
住まい
福岡県
病種(大区分)
その他
病種(小区分)
その他
病種(備考)
臼後部癌(小唾液腺腫瘍)
ステージ
ステージ4
告知年月日
2020年04月13日
通院・入院先の病院
関西(手術、放射線)→九州(経過観察)
現在の状況
経過観察中
治療歴
手術
放射線
職業
主婦(夫)
配偶者
有り
こども
女性 / 10歳
男性 / 7歳
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投稿
今日の気分
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4年検査パスしました!5年検査を受けられるのか、怪しくなった件
みなさま、おひさしぶりです。 2024年3月11日。 手術から丸4年のCT検査当日の朝。 前夜からの頭痛が全く引かない。 娘が登校できない。 もう今日は私が頑張れない。 初めてだけど、病院に連れて行ってみるか! そしたらなんと、何カ月ぶりか、息子も登園できない。 なんで今日(;’∀’) おとなしい娘はなんとかなるかもしれない。 でも、息子は(色々想像)・・・無理だ。 実家。妹。電話してみたけど繋がらない。 無理だ~。 (土)に卒園式でお世話になったばかりの 園に電話し、園長に替わってもらい、 「駐車場までしか連れて行けないかもしれません。 騙して連れて行くことになるかもしません。 それでも、協力して頂けませんか?」 「大丈夫ですよ」 これ、去年までは対応できないと断られ、 行き渋る度に、駐車場から泣く泣く連れ帰ってました( ;∀;) 息子に、今日がどんなに大事な検査かも説明した上で、やっぱり「登園できない」というので、 「病院に問い合わせて、OKが出たら同伴、NGなら保育園」 ということで息子も納得し、 無事に保育園駐車場までは連れて行ったものの、 病院に電話がつながらない演技では納得せず、大暴れ。 結局。駐車場まで担任の先生に来てもらいました。 息子から右目に強烈なパンチをくらい(まだほんのり痛い)、 先生に抱っこで連れ出してもらい、 娘だけを同伴して、何とか検査に間に合いました。 保育園に向かう車内で「今日、絶対がん見つかると思うよ」と、息子から恐ろしい予言をされましたが・・・ 結果は外れ、無事に4年検査にパスしました✨ 来週17日で4年です。 そこでもらった主治医からの言葉が、衝撃的。 「次は半年後ね。もうね、再発の心配はないと思っとう。 その後はもう卒業かな。」 「え! 大阪では、5年生存率が25パーセントで、10年生存率はデータがないって。 今後10年は経過を見ていくって言われてたんですけど。」 「うん、先生によって色んな考え方があるけんね(^-^)」 いや、全然よかったーってならん。不安しかない。 頸部郭清した29本のうち、3本は転移しとったやん。 ちいさいのがどっかに行ってて、それがちょーっとずつ大きくなるのに、どれくらいかかるかな。 どれくらい長くかかってくれるかな?っていう考えやった。 初発も自分じゃ見つけられなかった。 奇跡の連続だった。 それでもステージ4。 遠隔転移なら脳か肺の可能性が高いらしい。 次、どうやってCTも撮らずに小さいうちに見つけると?? イメージしてた今後の保証されてた6年間が、何だか怪しくなってきたぞ~。 別件で、術後色々と気になっていた症状を検索したところ「甲状腺」がヒットしていたので、先日クリニックの健康診断の際に、甲状腺を追加してもらったら「橋本病」でした。 事前に科に問い合わせた上で、検査結果をバタバタと間に合わせて、今日「医療情報提供書」を持参しましたが、 「僕も甲状腺はあんまりやし、どこでみても薬はチラージンやし大差ないよ。」 ・・・うん・・・まぁ、そうなんでしょう。 「じゃ、病院のホームページの科の取扱項目から、「橋本病」を消したらどうですかー?」 「忙しいんだから、橋本病くらいで質問勘弁してよ。」ってのが伝わるー。 実際、「命に関わる病気じゃないからね」って言われたし。 今日も椅子に座って先生見る前にCTの結果言うし、パスして嬉しいのに、主治医とのやりとりでモヤる。 そんな半年検診が定着してきました・・・ 帰りに車内で主治医の愚痴を叫んだら、 「ね、悪口言ったら、気持ちがいいやろ( ̄∀ ̄)」と背後から魔女の囁きが… 娘でした笑 ※後記 お迎えに行った帰り、息子から 「保育園でも楽しかった。朝、行きたくないって言って、検査遅れてごめんね。」と不意打ち。 「行きたくない」は、謝らなくていいんだよ。そんな時に頑張ってくれてありがとう。でも…目がまだ痛いよ。」 息子、逃走。 息子に検査結果を伝えると、目をキラキラ輝かせて喜んでくれました。
作成日 : 2024-03-11 15:45:26
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スプリングカフェのご案内
みなさん、おはようございます。 突然ですが、今日は2つご案内があります。 ☆1 CPでたくさん活動し、みんなを笑顔にしたなおこちゃんは、 私たちに「スプリングカフェ」という居場所も作ってくれました。 それは、サポートを必要とする子どもたちを育てる、病気の親が集まってお喋りする、カフェのような居場所であり、現在の主な活動はグループラインでのやりとりです。 カフェについての詳細は、なおこちゃんのこちらの日記から、紹介サイトをご覧ください(*’ω’*) https://cancer-parents.com/posts/2111451 そして、ご興味がある方。ぜひ、仲間に入りませんか?? お子さんに診断名は不要ですし、「ちょっと育てづらいな」「なんだか他の子と違うのかな?」「他のペアレンツどうしてるんだろう」という感じでも。 一旦入って、そっと離れて、また入るとか、柔軟に。・・・これはなおこちゃんの意向です(^-^) また、保護者の方の「病気」は、がんに限定していません。 それまでの告知場所が主にここだったので、現メンバーは、CPメンバーと、もう一人。 という構成です。 CPメンバー以外にも、このような場を求めている方がいたら、ぜひご紹介くださいね(^-^) なおこちゃんが旅立っても、グループラインは続いていたのですが、私が告知をさぼってしまい、なおこちゃんがせっかく作ってくれたサイトを活用できていなかったため、新規メンバーさんが入れない状態になっていました。 本当にごめんなさい!!! ※そして、サイトにあるバナー「メンバーの受付はこちら」が、現在は機能しておりません。 そのため、今サイトは凍結状態。お手数ですが、ご興味ある方は、こちらへのコメント、または私へのメッセージで、お知らせ頂けたら、ご返信します。 よろしくお願いします!! ☆2 なんと、今日は、なおこちゃんが旅立ってから初めての、スプリングカフェzoom会です。 もっと早くこちらでカフェ&zoom会をご紹介できなくて、本当にごめんなさい(;’∀’) 子が寝ていることを期待して、週末、遅めの開催時間です。 12月1日(金)22;00~22:40 今日のお題:フリートーク かおる(福岡) さんがあなたをスケジュール済みの Zoom ミーティングに招待しています。 トピック: かおる(福岡) の Zoom ミーティング 時刻: 2023年12月1日 10:00 PM 大阪、札幌、東京 参加 Zoom ミーティング https://us05web.zoom.us/j/87825706101?pwd=sxlLwezWX2PaYAXS8RfBeJ5kCsddc0.1 ミーティング ID: 878 2570 6101 パスコード: 8z5DyE 今後、zoom会は定期で行いたいなと思っているので、今回は急すぎて無理でも、ぜひ、次回以降ご参加くださったらうれしいです。 開催時間やトークのお題等も、今後はみんなで意見出し合って作っていきたいなと思います(^-^)
作成日 : 2023-12-01 11:03:24
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11月21日(いい日―)がん教育へ
久しぶりの、近況報告です。 私事ですが、CPで「がん教育」を知って、興味を持つようになりました。 しかし市政だよりの情報やネット検索からもイマイチ仕組みが理解出来ず、この夏、がん教育のレジェンドとっしーさんが来福された時に伺うと、 「福岡でがん教育をされている方を紹介しましょうか?」と言って頂き、 翌日には福岡市・県のがん教育を担うNPO団体の副代表の方に繋がり、 9月下旬から昨日にかけて実際の授業を見学させて頂き、 昨日、念願かなって団体に登録しました。来月からアシスタントです。(スピーカーデビューはまだ先です) がんにり患した後で、世の中には、「がんはうつる病気だ」と思っている人がいると知ってショックを受けました。 がんり患を機に疎遠になった人がいたり、「元気だなんて言わないで。生きているだけでいいよ」と言われたりして、以前と変わらず対等に接してほしいのにと、残念でした。 がんの原因が生活習慣だと周知され、それだけが原因だと誤解されると不本意だな、とも思いました。 それまでもしタバコを吸いまくっていたとしても!結局「原因それですよ」とは誰だって言えないはずだし、告知されたら本人は過去を振り返って後悔する瞬間があるんだから、せめて本人以外は何も責めないでほしい。少しでも早く、前向きにシフトするために。 知らないから、怖い。 だから、がん患者と知って遠ざける人もいるのかな。 知ると、具体的に怖い。 だから、予防するようになったり、早期発見できるように、がん検診を受ける様になる。 こんな風に理想的に心が動くとしたら、やはり純粋な子ども達でしょうか。 でも、大好きなお子さん、お孫さん達から声掛けされたら、保護者も重い腰が上がるんじゃないかなーと期待したり。 授業を受ける子ども達の中には、いずれキャンサーサバイバーになる子がいるかもしれない。 親がそうなるかもしれないし、友達がそうなるかもしれない。 そして、既にそういう子どもたちもいるでしょう。 見学したどの学校でも、子ども達は真剣に話を聴いていました。 その感想や姿に触れて、まだ見学者ですが、背筋が伸びました。 がんになったからには、そして、せっかく体も心もたくさんの方々のおかげで回復したからには、何かしたーい!!モチベーションだけは高く、心がはやりまくっていたのですが、 先輩ママである副代表が、今は、(教室に通えない、自主登校できない)娘を最優先にしてあげた方がいいんじゃない?と、娘がまた安定登校出来るようになるのを待ち、さらに、突発的に娘が登校出来なくなった際に私が焦らなくていいように、午後の授業のみに絞って割り振って下さいました。有難い。 社会が、がんに関心をもって、知識を深めて、検診の受診率も上がって、り患後はがんであることをオープンにしても、何のデメリットにもならず、むしろメリットしかなくて、親子で、生きやすい社会になるといいな。 がんと告知されても、医療の発展や社会の認識で、今ほど落ち込まずにいられるような明るい未来に。 写真1:昨日、登録時にカフェで飲んだモンブランチャイ 写真2:昨夜2h不安で荒れたけど、今朝笑顔で遠足行けた娘のお弁当。 保育園時代からキャラ弁リクエストされて、受注したのは小3です(;'∀') 完食してくるかな。 写真3:週末。雷山千如寺で拾った葉っぱで、子ども達がレストランを開きました
作成日 : 2023-11-22 16:42:44
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誕生日、おめでとう。元気?
私の母は5人兄弟。 うち4人が、3人ずつの親になり、 毎年、長崎の本家に親戚が集まる盆正月は、子どもが12人。 その中に、同じ年で同性の従妹が1人。 普段暮らしているところも、福岡市内の同じ校区。 普段から男の子達と外を走り回っていて、インドアな私とは正反対。本家でも一緒に遊ぶこともなく、従妹はとにかく昼寝ばかり、という印象。 別の校区に従妹が引っ越して、それぞれ小学校に上がると、私よりずっと勉強が出来て比べられるし、字は綺麗だし(私の唯一の褒められポイント?)、もちろん体育は得意だし、何にも敵わない。 クラシックを聴いて育った私は、「中学校に入ったら吹奏楽部で楽器を始めるんだ」と夢見ていたけど、鼓笛隊のある小学校で従妹が既にばりばりトロンボーンを吹いていると知った時には悔しくて(しかも上手い)、トドメを刺された。 でも…従妹、面白いし、めちゃくちゃ優しい。 天邪鬼でなかなか友達ができない私も、従妹とは仲良くなった。 くだらないことが、一緒だととにかく可笑しくて笑えてしょうがない。 私だけ従姉妹家族の車に乗せてもらって帰省したり遊びに連れて行ってもらったり。 小学校も中学校も別々。 唯一のチャンスは同じ学区の高校。 頑張った。 けど、従妹の志望校には及ばず… 泣きながら願書書き直して、私は別の高校を受けた。 隣の高校の吹奏楽部に入部して、合同演奏会の際には、実行委員になったら顔を合わせられるんじゃないかとお互いに思って実行して顔合わせで爆笑したり。 片思いじゃなかったと思いたい笑 部活引退後は、塾の自習室でまた同じ時間共有出来て。 一方、高校出たら少し遠のいた。 私は社会人になると同時に一人暮らし。 帰省して母と2人になった時。 母が何かを言いかけてやめたので、問い詰めた。 「(従妹ちゃん)が……がんなんだって。」 「え?」 「詳しくは聞いてない。 おばちゃん(長女)から聞いたけど、おばちゃんは、おじちゃん(従妹の父親)から兄弟誰にも言うなって口止めされてて、お母さんも知らないことになってる」 言うなり、外で母は泣き出してしまった。 そこからは、本人とのメールも、罹患を知らない体でのやりとり。 会いたい。 でも、それはエゴ? 従妹の気持ちを最優先させたい。 口止めは、従妹? いや、きっとおじちゃんの意向だろうな。 でも。 私なんかより、おじちゃんが辛い。 結局、それから1年間、一度も会えなかった。 私だけ、25才になって、 従妹は24才のまま。 子どもの頃から変わらない夢、薬剤師。 国家試験受かって。 MRとしての就職先も決まってた。 ずっと自慢の、私の従妹。 私はそれまで、一応目標を持って仕事をしていた。 なのに。 あれ、何で海外行きたかったんだっけ? あれ、何で生きてるんだっけ? 生き方がよく分からなくなった。 きっと、「この分野で私はがんばる」って、従妹に張り合ってた。 それから、「がん」という響きを極端に避けた。有名人の闘病ブログも、読んだことはなかった。 そして、38才。 自分ががんだと分かって、「世界が開ける。いよいよ逃げずに向き合いなさいと言われているんだ。」と思った。 従妹と同じ、希少な頭頸部がんだということも、運命だと思った。 従妹の他界から18年余り。 まだまだ濃い。 地元に帰って、ますます濃い。 夏は、共通の想い出が多過ぎる。 ふいに音楽が流れれば、涙が止まらない。 寂しい。 先輩患者でもあり、治療に一切の弱音を吐かなかったと言う24才の従妹は、かっこいい。 今日、私は半年に一回の検査。 普段は忘れていても、やっぱり当日は、42才だけどビビるんだよね。 何もなかった。次回も半年後。 当時は、何で私じゃなくて、従妹? なんて思ってた。 何で、あんなに素敵な従妹が?? と、喪失感でいっぱいだった。 でも、今は長生きしたい一心。 子ども達のそばにいられるだけいて、たくさん土産話持ってから、行こうと思ってる。 大好きな従妹。 絶対笑顔でニヤニヤと嫌がるけど、きっと待っててくれる。 人気者だから、近況報告も順番待ちかな笑 誕生日、おめでとう。 一日遅れた、ごめん。
作成日 : 2023-09-11 13:37:09
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術後3年。ジュリアン達の奇跡。
3月は昨日までに複数検査。 頭部〜胸部CT @耳鼻科、 頭部MRI、脳波 @他科、 全て異常なし。 2020.03.17の手術から、無事3年。 半年毎の(月)の診察ではいつも通り、 まだ席に着く前に結果報告。 先生「CTには何も映っとらんやったけん、 安心してー」 そして、最後もいつも通り。 先生「そのうち、気がついたら5年経っとったねーってなるけん。」 いや、ならんけん!! 毎年しっかりカウントするけん!! (「明日病院嫌や〜」と家族に漏らしても、翌日は誰も結果を聞いてきてくれません。 だからまだ言ってないけど。 福岡来てからは本当に心配してないみたい。 先生の感覚は、うちの夫のことかしら。) 今回の受診で、手術とは反対の右頬を噛み込んでいることを相談した。 以前、その様にして噛み込んだ左頬が腫瘍となり、癌化したと考えていることも。 先生も同意していた。 「(かおる)さんみたいに原因が虫歯やない場合、歯並びや生まれつきの形が原因で噛み込んで、それが腫瘍になるのに10〜20年はかかる。 5〜10年毎に切り取って生検に出して、悪性じゃないか確認していくことになるかな。」 なんだ。 左も、やることはやってきていたのか。 じゃあ、仕方ない。 と、うっすら悔やんでいた過去を思い返して妙に吹っ切れた、帰り道。 術後に聞いた、「5年生存率」の影響力は凄かった。 12年半振りのUターンは、 いずれ家族が3人になる準備でもあった。 今、「期待し過ぎるな」と戒めつつ、 5年、つまり今から2年後以降も、自分は生きていると思う。 図々しいけど、そっちの方が心にも体にもいい気がする。 年明けに、娘がお年玉で花を買いたいと言いだした。 娘が選んだ観葉植物はスクスクと育ち、 私の花達は、冬の寒さですぐに萎れた。 園芸初心者。 置き場所をちょこちょこ変えてみたり、 閃いたタイミングで一回り大きな鉢に植え替えたり、 追肥に栄養剤、水やりの頻度を変えたり、 余裕なくてしばらく放置してたり。 それでもダメで、園芸好きの母に「これはもうダメよ。私なら抜くね。」と言われていたアネモネとバラ咲きジュリアン。 でも諦めが悪い私には、ジュリアンになんだか蕾らしきものが見えてきた。 そして昨日。 ジュリアンが咲いていた✨ さらに今朝。 アネモネに蕾✨ 2鉢一緒に復活なんて✨✨ 皆さんに、この奇跡の力が届きますように!
作成日 : 2023-03-15 11:25:20
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心に春到来。術後2周年。
今日は術後2周年+1週間。 ①精神科、 ②頚部胸部の造影剤CT、耳鼻科(臼後部がん)。 精神科では「前回から1カ月半。どうでしたか?」聞かれ、「大丈夫です」と答えられて、笑顔で肯定してもらえる心強さ。 しかし…今日を最後に主治医は異動されるとのこと。 2020年11月に転院してから長らく、「全然寄り添ってもらえない。話すの辛い。カウンセラーじゃなく精神科医だから仕方ない?」と距離を感じていたけれど、 いざ心が浮いてみると、私を好調に導いてくれ、私の生活の一つひとつに耳を傾けて客観的に適切にアドバイスをくれ、精神科医の立場で出来る具体的な助けを柔軟にしかもスピーディーにくれた、私にとって理想的な先生だったのだ、と思う。 そうか、最後か…。 いや、今の私なら大丈夫。もっと前じゃなくて良かった。 耳鼻科の主治医はいつもの笑顔で「CTは大体良かったよ」って爽やかに言うから、私は「『大体』って何ですか?」 って聞き返そうかと思ったんやけど、パンクブーブーのネタ並にビビりなんで、 先月の血液検査の時も同じセリフやったけん、「単なる口癖」と判断。 また、時々血液検査はしてるけど、結果を見せられることは一切ないのでこの2年気になっていた「腫瘍マーカー」を初めて聞いてみたら、悲しい顔で 「残念やけど、粘表皮がんには腫瘍マーカーってないっちゃん」 そういうことねー。 「…じゃあ何で血液検査はするとかいな?」って思ったけど、まぁいっか。 年末年始からの開口時のハッキリした痛みは、結局主治医含めて4カ所の病院に行って、様々なことを言われ、ある医師の見解が次の医師に否定されて、を繰り返し、残ったのが、 「術後、奥の方で開口を支えている筋肉が炎症を知らず起こしていて出来た瘢痕」説と、 放射線の晩期障害説。 今日、「その瘢痕を切ったら開口しやすくなる可能性もあるけど、手術する事でまたよくないことも起こるかもしれんけん、まぁどれくらい困るか様子を見て…」 と言われ、激しく同意。まだ切りたくない。 どちらにしても、今のところ出来ることはなく、開口訓練は必要なので続けざるを得ない、という事実。 元気だった左腕を犠牲にしてまで得た、「口から食べる」と「喋る」機能。 術後2年近く経ってその機能が揺らいで、その有難さを改めて感じて。 こうして、怪我や病気のたびに、いつも私の為に頑張ってくれる私の体に本当に感謝。そして元気な時にはその感謝の気持ちを忘れちゃう悲しい性よ。 2年前。 悪性腫瘍をとった安堵だけじゃなく、 顔面の一部の神経、 小さな子ども達との毎日1ヶ月、 38年見慣れた顔、 そして左腕の機能を失い、 ショックも大きかった。 でも、1年半で随分元の顔に近づき、知り合いの前でもマスクを外すのが徐々に怖くなくなり、(今じゃ全然平気。そんな機会もオンラインだったりするけど。) 子ども達と離れた傷も少しずつ癒やされて、 離れてもメンタルの揺らぎはほぼなくなり(むしろ離れてお一人様時間に心の安らぎをまた感じられる様になり)、治ったことを自覚した笑) なんと、本当に最近、息子を2年ぶりに抱き抱えられるようになった? 車で寝た息子を、マンション自宅に運び、寝室に置く頃には痺れMAXだけど。2歳の息子は抱っこ出来ず、まさか4歳の息子を自分で運べる日が来るなんて。 さらに、2年間出来なかった子ども達のダブル腕枕も、少しずつ出来る時間が伸びてる? この2年間は私の右側の取り合いだったけど、その分平和に寝かしつけられる✨ 最近は育児が毎日うまくいかなくて、心が消耗しきって、全然文が書けない。 でもこうして別のところで自信がつくと、記録を残しておきたくなる。 体にも、家族にも、執刀医はじめ関わってくれた全ての人に、きちんとお礼を言いたくなる。 生かされている、今日。 心が浮いている、今。 有難い。
作成日 : 2022-03-24 15:22:56
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助かります!
去年12月のクリスマスシーズンから深刻に悩んできたのが、時折訪れる子どもへのイライラ。 コントロール出来ないほどイライラしたのが多分人生で初めてで、ショックで、自己嫌悪で… 数ヶ月悩んで、ネットでようやくPMDDという言葉に辿り着き、婦人科受診。 その後数ヶ月落ち着いていたのに、10月末、頭痛を懸念した先生のアドバイスでピルを変更したのが関係あるのかないのか、イライラ再開? そういえば。 10月末、人生で一番絶好調だった娘が再び癇癪を起こす様になった。 私がイライラするのは、子ども、特に娘が愚図りまくるか癇癪を起こす時か。。。ということは、ピルというより子ども達の状況に左右されてただけかもしれない、という新しい気づき。 幸いにも1ヶ月続いたイライラは、一旦生理の到来とともに消えた。 (この日から入れ替わりで頭痛地獄) 頭痛や頭首肩の張りから解放された清々しい今朝、イライラがまた来た! 娘が久しぶりに昨夜、今朝と「学校行きたくない」愚図りが激しかったからね。 頑張って切り替えて登校した娘を喜ばせたくて、帰宅した娘に昨日リクエストされていたペーパークラフトを準備。 おやつも食べ、大好きな工作で穏やかだった時間は過ぎ、私が「弟お迎えの時間だから一旦片付けて下さーい」というなり、いきなり癇癪MAX。 頑張って心を無にして待っていたら、5分後、急に黙った。 寝とるやないかーい!! 冗談かと思ったよ。 お迎え時間まで20分ほど寝かせ、声を掛けた。 この時、私の脳内には誰かが「寝た子を起こすな」とか「触らぬ神に祟りなし」とか囁いたけど、分かってるけど仕方ない? 案の定一愚図りして、今日の福岡は一気に寒くなったのに、海風直撃なのに、娘はコートも着ずに外へ。 帰宅すると、次はブルータスが癇癪。 息子が癇癪起こす時は、理由が分かり易いからか、短時間だからか、単に幼いからか、私はそこまでは追い込まれない。 調理しながらやり過ごしていたら… 急にトーンダウン。 小さく娘の声が聞こえる。 そうだった。 下の子は一旦癇癪を起こすと、自分で切り替えるまで誰も手がつけられない中、何故か娘の声だけは彼に届き、娘がいつも優しく冷静に彼を戻してくれるのだ。マジック級の、誰にも出来ない技。 娘が一旦「ママ、弟はあっちゃんに全部任せて」と言いに来て、息子を優しく宥めると、息子はすっかり切り替え、私のところに謝りにきてくれた。 姉の指導が行き届いています? 今度は夕食後。 最近「明日の準備しよっか」だけで癇癪スイッチが入る娘。 今日も「えー??」とアクセルかかったところで、下の子が、 「あっちゃん?じゅんびしたら、楽になるよ? ぼくがしてあげよっか?」と娘のランドセルへ。 初めてのことで不意をつかれた娘もランドセルに向かい、筆箱を取り出して鉛筆を削り、その間も息子はランドセルに手を掛けて、 「あっちゃん、もう閉める?」 「まだ終わってないよ」 「でも、閉めとく?」 「閉めん!」 「閉めたい…(ボソッ) じゃあ、これ(中の教科書)、出す?」 「出さん」 「出そっか。筆箱はうちのやから、だーす!」 と娘がランドセルに入れた筆箱を息子が勝手に取り出して、娘が笑いながらこっそりランドセルに戻して… 手伝いどころかちょっと邪魔なんだけど、娘は久しぶりに自分から?鉛筆削れたし、配布物を私に手渡してくれた。 時間割や持ち物は、まぁ私がすれば良いや。 2人とも、ありがとう?
作成日 : 2021-12-01 23:04:13
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治療由来の症状にも、相談先がほしい・・・今のモヤモヤと過去の体験談。
今日は半年に一度になった、耳鼻科(頭頚部がん)受診日。 いつもの笑顔で、「どう?なんか気になったことある?」って聞かれたので、 最近下を向くと首の後ろ側が痛む時があり、初めてなので気になっていること。 23日から頭痛が続いていて、婦人科の病院でCTを撮ってもらい、異常なしだったこと。 2点を伝えた。 今日のCTは頸部~胸部だと書いてあるけれど、しっかり頭部も写っていて、一緒に見ながら大丈夫だとお墨付きを頂いた。 頭痛にセカンドオピニオン頂けて安心。 でも、首の痛みは私も癌直結とは思っていなくて、左頸部のリンパ郭清しているから、その影響じゃないかな、リンパ郭清と放射線照射によってめちゃくちゃ硬くなってしまった頸部への、リハビリとかで緩和できないのかな? って思ってただけなんだけど、その「もう一言二言」が言えない雰囲気。 前の病院でも感じていたし、どちらの先生も貴重な「頭頚部がん」の名医かつ誠実で尊敬しているし、贅沢過ぎるのは分かってる。 だから、ここで言わせて下さい。 「治療由来の症状にも相談先が欲しい。」 術後の体験談です。 術後の麻痺に悩む方がいらっしゃって、もし参考になったら嬉しいのですが・・・ 去年3月に、患部に移植するために一部を組織ごと取って術後は全く動かせなかった左腕が、自分の意思に応じて、少し遅れてだけどまた動くようになったときは感動したし、少し動かしただけで感じた激痛も、かなりレベルダウンした。 けれど、すぐ飛びついてくる当時2才のやんちゃな息子との生活がまるで送れる気がしなくて入院中にちょいちょい相談はしたけど「大丈夫(^-^)」って言われて、術後1カ月で退院。 当時住んでいたところでは、保育園送迎にも買い物にも車が必須だったけれど、なんと車のシフトレバーが動かせなくて、驚愕した。PからDにしたいのに、2に行ったり、車庫入れでRにしたいのに、上に持ち上げられなくて焦ったり。 自力で保育園送迎が出来ないということは、保育園が利用できず、かといって日中一人で子ども達を見るのは難しく、いずれの職場復帰も現実的ではなくなって、さらに包丁を使う作業がうまくできなくなり、小鍋さえ左手で持ち上げられず、洗濯も右手のみで。 補助具の購入や、家事の代理サービスが利用できないかと市役所に相談に行ったけれど、利用できるものはなく、一番将来を悲観した時期だった。 転機は次の受診日。 耳鼻科では「障がい者には当てはまらないでしょうねー」と言われ、一体どう解決したらいいのか分からず藁をもすがる気持ちで「がん相談支援センター」へ行き、福祉用品を案内してもらっている時に、親身になって話を聞いて下さった支援員の方から「リハビリが受けられないですかね」と言われた。 目から鱗。 入院中、本当に暇で暇で何かしたくて、さらに左腕の不安が大きくて、「私、リハビリとか出来ないですか?」って聞いた時には、「まずは傷を治しましょう(^-^)リハビリはおじいちゃんおばあちゃんしか受けないなぁ」って言われたので、全く考えていなかった。 それからトントンと話は進み、4日後には近所の病院のリハビリ外来へ。 右手握力20、左手握力5.8(たしか) リハビリたった1回で可動域が劇的に広がり、2回目が終わるとシフトレバーを難なく動かせる程に。 一気に光が差した瞬間だった。ドラマチックな私。 それからは自分で運転してリハビリに通えるようになり、放射線治療と時期が重なってしまい、放射線で体調不良が続いたので期限内に通えたリハビリの頻度は低かったけれど、やることなくて暇すぎてしんどかった入院中や、ただただ悲嘆に暮れるだけの退院直後から通えていたら、今の左腕の麻痺はもう少し軽かったんじゃないかな、と思う。 あの時、支援員さんが閃いて下さってなかったら? リハビリに繋がってなかったら?? あり得る。 私は全てを悲観したまま色んなことを諦めてたのかなぁ。 私のQOL(Quality of Life)は、スレスレのところで守られてきたけれど、今回だってもしかしたら何か「患者には目から鱗なこと」が潜んでるんじゃないのかなぁなんて思うのでした。 それにしても、頭痛よ。辛い・・・もう8日目です(‘Д’)
作成日 : 2021-11-30 15:40:14
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徒然なるままに
11月。一度理由も分からず沈んでしまった心が中々戻らず、もがいた。 小学校の花植えボランティア活動に参加したのもその時で、最後に別の保護者に連絡先を聞くと、「私も転勤してきてすぐPTA活動で他学年のお母さんに連絡先を聞いたけど、大丈夫。ちゃんと同じ学年にいっぱいママ友が出来るから。」と優しく断られた。 「失敗した~」と思ったけれど、同じ気持ちを経験した方にすら断られたことがショックなのか、1年間も小学校に知人が出来ていないことがショックなのか、活動に参加した下心を見破られたことが恥ずかしいのか、自分でも分からない。 とにかく、色々ともがいても全然心が浮かばないことで自信をなくしていた。 夫が、「大丈夫。家族がおるやん。」と声をかけてくれた。 活動は「花植え」前の土を整えるところからで、長時間の中腰作業中から既に20年越しの腰痛が辛く、翌朝からは謎の右足裏痛。 歩いても、運転しても、痛い。階段もいよいよ痛い。普通に歩けない。 **************************************** 普段週休1日の夫がシフト都合で4連休になり、10月の私は、「今まで我慢していた分、家族で遠出しよう」と言った。 2019年の七夕で「でぃずにーらんどにいきたい♡」と書いた娘の短冊を叶えたくて、2020年に連れて行こうと話していたTDLは、私の癌発覚とコロナで流れてしまった。 4連休のうち2日間は平日。夫は娘に学校を休ませたくないと主張した。 毎日学校に行きたくないと言い、それでも頑張って登校している娘。 「これから、学校は休んでもいいんだと思ってしまうのが心配だ。」と。 TDLのチケットが取れないと分かって、私の心も落ち着いた(笑)よし、通常運転だ。 子ども達が学校や保育園に行っている間、夫は家で仕事をしていた。 私はいつも通りの家事を、生理痛に合わせてゆっくりとこなして過ごした。 そして今日、久しぶりの一人時間。 気持ち、沈んでいない。 「大丈夫、家族がおるやん。」が本当に効いたのかもしれない。 まだ一日だけどね。明日、いや今日この後どうなるかさえ分からないけど。 **************************************** 先日、自分の癌について、話す機会を頂いた。 2020年1月に告知されてから、知らない方に話す初めての機会。 時間が設定してあったので、前もって文章にまとめた。 心が沈んでいる時に、普段考えない分野のタスクがあることに、思いがけず救われた。 話し終わると、すーっと気持ちが楽になっているのを感じた。 他の方達の経験談を聴いて、「同じ気持ちだなぁ」ということが実感できて嬉しかった。 **************************************** 最近、2か月振りに会った母親から「病気平癒」の御守を渡された。 受け取らなかった。 数カ月前には、夫からも「病気平癒」の御守を渡された。 やっぱり受け取っていない。 人から「病気」だと思われると、「違うよ。私は元気だよ。」と言いたくなる。 「健康御守」だったら嬉しかったのに。 だけど、すっかり自分のことを棚に上げている。 「これまで経験したことがない箇所が急に痛くなるなんて、もしかして癌の影響だろうか。」 「元気なうちに行けるところに行っておかないと、叶えてあげられないままかもしれない。」 何かあった時に、自分でも意識していなかった病気の不安や焦りが口をついてしまい、やっと自分の気持ちを知ることになる。 ということに気付いてしまって、先日の「癌になってからどうやって前を向いたのか」という項目について全然書けなくて、違う項目に変更してもらったのだけど。 でもまぁ、仕方がないから、この気持ちは素直に抱えたまま、久しぶりの太陽を浴びて、昨日からすっかり痛みが引いた、おそらくただの筋肉痛だった足で前に進んでいたら、自然と前を向けるのかもしれない。 きっと子ども達が思い出すのは、TDLに行ったこと以上に毎日の些細なことだったりするだろうから、焦らずに生きたいな、と思う。 でも、行きたいんだよなぁ(笑) 日本にも海外にも行きたいところがいーっぱいあって、どこか一つと言われたら、ないんだよなぁ。
作成日 : 2021-11-25 13:14:07
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コロナワクチン2回目
コロナワクチンの2回目の、順番待ち。 一般枠だけど、既往歴(癌)を書いていたからか、問診票提出後はカーテン付きのベッドに座らせてもらえているVIP待遇。 ラッキー? 私の自治体では、一般枠は、年代毎に申し込み順が決まっていて、30代の妹達や夫よりも数日早い解禁日に、朝からPC前にスタンバって、光の速さで申し込んだ。 その数日後、30代の夫や妹は私よりも数週間早い日を予約出来ました。 キャンセル多かったんかな? 同い年の友人も、予約後何度かチェックして早めたみたいで。性格出たなぁ? 1回目当日は頭痛、微熱、吐き気。腕の鈍痛。 翌日には鈍痛以外全て治って倦怠感と睡魔。 3日目からは腕の鈍痛だけだった記憶。 妹達はどちらも38℃台だったらしいから、体質的に今回熱上がるんかな、と警戒して、子ども達のお迎えは頼んである。 接種の帰りに運転不安になる程のぐったり、とかないよなぁ。と、直前になってビビリMAX! そもそも注射嫌いやからなぁ。子どもか!
作成日 : 2021-09-10 10:11:28
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あっちゃんの誕生日がきたら、
9月1日に、空気が変わったのを感じました。 翌日、もうすぐ4歳になる息子が、「あっちゃんの誕生日がきたら、トンボになったんだよ」と教えてくれました。私は観ていなかったけど、きっと9月になってEテレの各番組が、秋の仕様に替わったんだろうな。 私の待望の娘は、不安が強くて、繊細で、赤ちゃんの時から泣いてばかり。 自分で動けるようになっても母親から離れない。 1歳半まであと5日という時にようやく歩き出し、1か月後から保育園入園。 毎日大泣きする娘をむりやり引き剥がして預けて仕事へ。 憧れていた育児は大変で、お迎えに行ってから眠るまで癇癪の嵐。 寝かしつけたと思って布団を抜け出すと、5分後には起きてくる。 早朝もやっぱり起きてくる。 娘が寝ている間に家事をしたいのに。起きている間は娘に手がかかって進まないのに。 溜まる家事と、上手くいかない育児に、自分の能力の低さを感じる。 一方、娘は可愛かった。 隣に親が眠っていたら、いくらでも一緒に眠ってくれた。 まだ昼夜のリズムがつかないと言われる新生児の頃から5時間も眠ってくれたから、夜泣きがあまりなかったから、育児ノイローゼにならなかったんだと思う。 下の子を妊娠中が、一番穏やかだった気がする。 毎日激しい癇癪が何度も起こる3~4週間が明けると、1週間くらい癇癪のない凪のような日々がくる。 私と夫が、目の前の可愛い2歳児に夢中な一方、娘は毎日お腹の子に声をかけて慈しんでくれた。 3才になった月に息子が生まれ、入院中は遠慮がちに可愛がっていた娘が、退院すると豹変。 授乳を見た瞬間、息子をグーパンチ。 それからは、息子への暴力と、その二か月後から「ママ嫌い!あっち行って」の激しいママ拒絶に悩む、二人育児生活のスタート。 長かった。 4才差姉弟のママに「4才は天使だよ。ずっと弟のお世話をしてくれて、すごく優しいよ。」と言われ、希望になった。 でも。 4才になった娘の癇癪と弟への暴力に、相変わらず悩む毎日。 5才の誕生日前日。遠路お祝いに連れてきたやなせたかしミュージアムで、癇癪を起こした娘に思い切り上腕の内側を噛まれた。 「もう、5才なのに。」 周りの人に見られながら、暴れる娘の暴力を受け、痛くて惨めで、ショックだった。 3才から相談してきた心理士さんに、5才目前の夏に初めて「発達に凸凹がみられる」と言われた時は、やっと視界が開けた気がした。 保育園には、いくら娘の苦手を相談しても「ちゃんと集団に入れている。一斉指示も理解している。」と理解されなかった程、園では気を張って頑張っていたらしい。 「母親なのに、本意が分からない」と悩んでいた娘のことは、本当に理解できていなかった。 6才になってから引越までの2か月間、保育園を抜けて療育の事業所に通い、初めて娘の苦手なことを知り、福岡へ転入後は、療育センター、就学相談を経て、入学後の通級指導教室で、娘の強い不安と緊張を理解し、寄り添ってもらえるようになった。 小学校への不登校傾向と毎日の愚図りは日々の心配事ではあるけれど、夏休みに入るタイミングで小児神経科を受診することが出来、処方薬で、7年間悩んできた癇癪が、ただの愚図りになった。(それも長時間だと充分なダメージ力はあるんだけど?) つい最近までの悩みが嘘のように、弟に暴力を振るわなくなり、喧嘩しても「もう、可愛い!!」と弟のほっぺたを触って仲直り。 「優しいお姉ちゃん」と過ごす穏やかな毎日。 9月1日に、楽しみにしていた7才の誕生日を迎えた。 7才。 聞いていたより3年長く待って、娘に天使を感じる。 小さな頃から、必要以上に外で神経を使ってしまい、友人や大人の気持ちを自分より優先してしまい、疲れてしまう娘。 でも本人は無理してやっているわけではなく、純粋にそれしかできない。 だからこそ、いつも周りの人に愛されていて、それも幸せの一つの形なんだろうな。 この7年間、娘は可愛くて、その存在を否定したことは一度もないけど、家ではいつも不機嫌で、不満しか訴えないのが辛くて、「可愛い!!けど大変!!」と必ず育児の愚痴をくっつけてた。 一方の娘はそんな母親の態度にきっと傷つきながらも、一度だって「他のお母さんがよかった」なんて言わずに、凸凹だらけの私の全てを受け入れて育ってくれた。 子どもの誕生日は、あらためてその存在に感謝する日ですね。
作成日 : 2021-09-04 14:55:01
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やっぱり楽器が好き。
日曜日。帰りの電車に乗ったら必ず最寄り駅に着く時刻をLINEしてくれる夫が、いきなり帰宅。 大喜びの子どもたちが走って玄関に行ったけれど、無言。無表情。 寝室に籠ってしまいました。 「ただいま」を言ってもらえていない3歳の息子が、納得せず、制止しても聞かず、寝室に。 「パパ、おかえり!!」「パパ、しゃべって!!」 様子を見て寝室に行くと、横になった夫が無視し続け、息子はパニックで、パパに訴え続け、やめられない。 しばらく粘っていた息子が、「ワ~ン!!」と泣き叫び、ようやくパパを諦めました。 その後、夕食を食べるといって食卓に着いたけれど、終始無言。無表情。 さらに数時間。無邪気な子ども達に、ようやく心がほぐれてきた様子。しゃべりだしました。 しんどい。 口を開けば職場の愚痴。 相槌を打てばさらに愚痴。 相槌を打たなかったり、提案したりすれば、いよいよ機嫌が悪くなる。 毎日「福岡にくるんじゃなかった。八方ふさがった。」と言われ、私が責められているとしか思えない。 月曜日。夫に言って夕食準備して、夕方から子どもたちと実家へ。 いつも忘れるフルートを、初めて持参。 最後に調律したのは10年前という代物ですが、中高時代に吹奏楽部で毎日練習していて、高校2年生の時に、それまで貯めてきたなけなしのお年玉と、親からの借金で買ったフルート。 職場の友人もフルートをしていたので、二人でサークルと称して場所を借りたり、湖と言う名のダムのほとりで、年に数回吹く程度。 子どもが生まれてからは、さらにご無沙汰。 去年2月にセカンドオピニオンでファーストオピニオン同様「下唇の中央から切開し」と説明された時、「術後、楽器は吹けますか?」と聞いたら、「どうかなぁ」と言われ、 (年に一回吹くか吹かないかのくせに、何を気にしてるんだろう)って、自嘲してしまったけど、本心ではやっぱり吹けなくなるのは辛かった。 ファーストオピニオンの病院での手術後、主治医から夫に「唇を切るのを避けられたので、予定より2h程早く終わりました。ご本人が術後のアピアランスをとても気にされていたので、出来るだけ顔の表面に傷が残らないようにしたかった」と説明があったそうです。 切開は顎から首にかけてでしたが、口内(臼後部)の腫瘍を取り、前腕を移植し、私の唇と左顔面下方は、一部麻痺しています。 食事はいつも食べこぼすし、顔についちゃっても(よく付く)鏡見たり家族に指摘されたりしないと、自分では全く気づかないし。 楽器が吹けるのかどうかは気になっていたけれど、自宅で吹くには音が大きいし、どこかに行ってまで・・・という感じで、ご無沙汰でした。 火曜日。まず親に勧められ、久しぶりにピアノを弾きました。 すっごい下手だけど、楽譜を見てもオクターブ普通に間違えるくらいにご無沙汰だけど、すっごい楽しい! 音楽のリフレッシュ効果をめちゃくちゃ感じて、次にフルート。 音がすっごいカッスカスだけど、めげずに吹いているとどんどん出てくる。 夏で管が温かいからか、苦手な高音も、いつもより吹きやすい。 ジブリ、ディズニー、クラシック。 思いつくままに、子どもたちにリクエストされるままに、色々吹きました。 楽しい・・・ あぁ、楽器やっぱり楽しい。いつもへったくそで、吹いていると嫌になることもあるのに、いやその方が多いのに、めちゃくちゃ楽しい。 1,2時間があっという間。 先生は、私のアピアランスの変化を最小に抑えただけでなく、知らずに趣味まで守ってくれた。 手術から1年半近く経って、また先生に感謝しました。 自宅では吹けないし、一人でどこかに吹きに行くこともないだろう、とフルートは実家に置いてきました。次の帰省が楽しみ(^^♪ 本当は1泊して夫の帰宅前に帰る予定でしたが、夕方には「帰りたくない」気持ちがめちゃくちゃ大きくなって・・・延泊しました。 母の美味しい手料理を堪能し、優しい父に癒され、ほんとに居心地よかったなぁ。 毎週末帰省しているらしい妹に遭遇すると、実家の空気は一変し、自宅よりもずっと居心地が悪くなるので、いつでも帰れるというわけではないけれど、父に「辛くなったらいつでも避難しておいで」と言われて、とっても救われました。 本当は一番に夫の味方でいて、支えなきゃいけないんだけど、そうしたいんだけど、できない自分も、認めよう。充電して、また頑張ろう。
作成日 : 2021-08-25 20:33:03
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惑いしかない。
もう、気分が沈んで沈んで何にも手につかない。 夫が荒れる度に、部屋に籠る度に、「地元に帰りたい」と言い出した自分が責められていると感じる。 こんなことになるんだったら、引っ越すんじゃなかった。 悩んでる息子のこと。息子にキレる夫のこと。 療育センターや精神科で相談してみても「実家避難」が唯一の解決策だったし、せっかく実家の近くに引っ越したんだし、と思って夫の状態が悪い時に実家に泊まりに行っていたけれど、決して実家の居心地がいいわけではない。 さらに息子のことで責められ、夜なのにと非難されながら子連れで実家を飛び出して、行く宛てがないから結局帰宅。 もともと、母子関係に悩んできたのに、ほとんど絶縁状態だったのに、私の癌を知ったら母が優しくなって、治療中に京都まで来てくれてたくさん甘えられたから、すっかり全て解決したと勘違いして引越までしてしまった。 けれど、母子関係の根っこが解決したわけじゃない。と目が覚めてしまった。 「メンタルが不安定な時に大きな決断をしてはいけない」という、ずっと前に医師からもらった助言は、本当だったと思う。 転勤。転居。転園。 私のわがままで、家族3人が心に大きな傷を負ってしまった。 いまだに「ひっこしたくない、きょうとがいい。すぎやませんせいがいい。こうしろうくんにあいたい」と言い、新しい友達の名前を言わない息子と、毎日ストレスMAXで帰宅する夫。 半年経っても状況はちっとも改善されない。そんな状況に自分も疲れて、引きずられて、メンタルは悪化している。 「夫のメンタルが戻るなら、京都に戻りたい・・・」 最近私も気持ちまで京都に行っている。 引っ越す前は、「同僚たちに会いたくないから会社を辞めたい」「苦情が続くアパートを出たい。階下の人と離れたい。」「コロナ禍で友人にも会えず、身内とも離れていて寂しい」という理由で京都を出た。 そして今は、「居心地の悪い実家から離れたい」「階下から苦情がくる今のマンションを出たい」「夫の鬱状態から解放されたい」という理由で京都に帰りたがっている。 逃げてばかりだ。 今、福岡を離れて本当に後悔しない?と自問して、一つだけ、後悔しそうなことがあった。 母とはうまくいかないけど、福岡を離れている間、ずっと海が恋しかった。 実際に今、海のそばに行くと必ず癒される。ここに居てもいいんだなぁと、肯定されている気がする。 この海から離れるのは、やっぱり後悔するかもしれない。 そんなことを考えていたGWが終わり、久しぶりの一人の時間。 気が重いなーと、3年間ほったらかしにしていた病院に行ったら、あっさり解決して、すごく気が晴れた。 そんなひょんなことで気持ちが戻り、子どもたちが帰る前に家事を片付けて(それが最近全然出来ていなかった)、帰宅した子どもがべったりでも、癇癪を起こしても、時間に余裕があった。 回答し出したら長くなってしまったので、PCで回答しようと思っていた花木さんのアンケートは、「今日提出!」と決めて、でもやっぱりダラダラ書いてしまって反省。 「辛かったこと」は、文がうまくまとまらなかったけど、「嬉しかったこと」は、打つほどに思い出す。ありすぎて、とても全ては回答できない。 自分にとって、おそらく一番辛かった時期を、私は本当にたくさんの人に支えられていたんだなぁと改めて実感し、それぞれの人の顔や言葉を思い出して、会いたくなる。そんな時間を頂けて、花木さんに感謝だ。 少し前に、akiraさんから「同窓会したらいいじゃない」と言われてみると、私は声をかけたい友人が思い浮かばなかった。会いたかった、京都の時にもずっと連絡を取り合っていた友人達とは、福岡に戻ってから一人ずつちょこちょこ会えている。 同窓会があるなら行ってみたいけど、自分から会を開いてまで会いたい特定の誰か、は浮かばない。 その時は、「12年半離れるっていうのはこういうことなのかな」と思ったけれど、今思うとその頃の私は単純にエネルギーが足りなかったんだろうな、と思う。 セイバーの日記を書いた日なんて、投稿したことを後悔していたし、音楽さえ聴けない日がいっぱいあった。でも、浮いたり沈んだり。必ず浮いている時間は訪れた。 今日は16時から、マンションの空き駐車場の抽選。 引っ越してから立体式駐車場というものに出会い、待てない子どもたちを車から降ろして入庫させたり出庫したりする難しさを感じている我が家にとって、平置き駐車場への憧れは半端ない!けど、同時に我が家への騒音苦情をもらっている階下のおじさんとも顔を合わせる苦痛の時間・・・ これまで2回(ハズれました)は息子を預けて臨んだけれど、今日は小学生になった娘の帰宅時間に在宅しておかなければならない。となると、抽選が終わってから息子を迎えに行っていては間に合わない。 息子同伴で臨む初めての抽選。 不安もあるけれど、あの苦痛の時間に一人で挑まなくてもいいという、ちょっとした、いや正直言ってでっかい心強さも否めない。そんな情けない私。 今月誕生日で、年下の夫に「四十にして惑わず、だね。」とか言われたけど、無理。
作成日 : 2021-05-07 14:57:14
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ALMIGHTYキター!!
長らくAmazon Primeを利用していましたが、Amazon Music PRIMEの存在に気づいたのが遅かった私。もったいなっ!! 気になる音楽を検索して、music unlimitedと表示された時は更に月額使用料が発生するので諦めるのですが、何も表示されなかった場合、ダメ元でその後も時々検索してみる。。。 そしてこの度、東京スカパラダイスオーケストラの“ALMIGHTY~仮面の約束 feat.川上洋平”が追加されているのを発見!!!! キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!! 皆さん、「仮面ライダーセイバー」ご覧になってませんか? この歌は、仮面ライダーセイバーのオープニング曲です。 私が子どもの頃は「チェンジマン」にはまってましたが、仮面ライダーには触れないまま大人に。 時々TVで偶然観て、「どこがかっこいいんだろう。将来、男の子の親になったら毎週観ないといけないのだろうか・・・」なんて思っていたのですが、男の子の親になりまして。 一昨年の秋、娘のボーイフレンドとうちの子どもたち2人を公園に連れて行った際、その子が「ゼロワン、ゼロワン、ゼロワン」と急に体を揺らしながら歌い出し、それを見た2歳なりたての息子が滑り台の踊り場で、「ゼロワン、ゼロワン、ゼロワン」と初めて耳にしたはずの呪文を唱えながら踊り出し、あまりに可愛過ぎてその姿見たさに日曜日に初めて「仮面ライダーゼロワン」鑑賞。 まさかの、私がハマる。 ストーリー面白い。。。 (息子は片手を上げてもう片手はお腹の前でグー。左右にお尻振ってました。ゼロワン観たけど、完全に息子のオリジナルやった(;’∀’)まぁ、きっかけなんてそんなものです。) 息子は怖がって観たがらず、毎週録画して息子がいない時にこっそり観ていました。 そんな私を笑っていた夫も次第にハマり、春頃には息子もハマり、娘の冷たい視線をよそに日曜朝9時は家族の熱い時間でした。 当時ゼロワン主題歌も同様にAmazon Music PRIMEで探したのですがヒットせず、京都から福岡まで引っ越す自家用車の中で「仮面ライダーゼロワン」ではなく、「リアライズ」と検索した瞬間にヒットした時は叫びました。 「あぁ、数か月無駄にした!!」 REAL×EYEZでリアライズ。J×Takanori Nishikawa本当にかっこいい楽曲です。 私の仮面ライダーデビューはゼロワンだったので、終わるのは本当に悲しかったし、絶対に心変わりしない!と思ったんだけど(「はぐっとプリキュア」の最終回でも同じことを思った心が幼い母親。)、全体的に明るいゼロワンに対して、シリアスな雰囲気、そして登場人物が多く複雑な設定に、そもそも頭が追い付いていないという悲しい現実。 いまだにゼロワンラブな息子が、セイバーも観るのは好きなので日曜9時に毎週セイバーを流してるけど、主題歌の時だけテンション上がるけど、画面を観ずに過ごすことが多くて、こんなに出遅れてなんやけど、最近のセイバー面白い・・・ 一度メンバーの名前を覚えるのを諦めたのですでに着いて行けていないけど、この歌詞の世界観を感じるためにも今からでも真面目に観ようかな・・・ セイバー熱はゼロワンほどではなかったものの、初回から主題歌にハートを鷲掴みにされていまして。 歌にハマる時って「初めて耳にした時から」ってあまりなくて、何度も聴いているうちにメロディーや歌詞にハマることが多いのですが、サビから始まるこの歌は頭からインパクト強くて!! 最近せっかく体は元気なのに、沈みがちで自室にこもりがちな夫につい気持ちが引っ張られて自分まで沈んじゃって、育児でも悩んでいて、待ちに待ったお一人様時間にネガティブ思考に陥って、やりたかったことに手つけずのままお迎え時間が来たりして、もったいなっ!て感じなのですが、この曲聞いたらめっちゃテンション上がる!! 一人の時間、子どもを保育園に迎えに行く時間、リピートでこの曲ばかり聴いています。 写真1は、おもちゃ屋さんで物欲しげな息子 写真2は、迷った挙句、私が買ってあげた品(彼が見つめてたのと違う)
作成日 : 2021-04-21 13:59:51
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「メンぺ?」短いプレゼンは私には無理かもしれません。今日も超長文です。
11月。転居先で保育園を探している時に、妹が勤めている保育園にも見学へ。 結局定員いっぱいで、その時も、この4月からも入園は出来なかったけれど、11月に園長先生から娘のことを詳しく聞かれました。 ・家庭での困りごと(激しい癇癪と弟への暴力) ・園では模範的で、先生方に発達障がいの可能性を全否定されたこと ・月末に、療育センターで受診予定であること 「うーん。使い分けているんだねぇ。でもどっかでぼろが出るはずだし、丁寧に観察していたら園でも気づくはずなんだけどなぁ。園の対応は残念だったね。 とにかく、4月からの小学校だよ。今のうちに必ず小学校にも話に行って。新入生の情報は学校だってほしいからね。」 とアドバイスを頂きました。 小学校の校長をされていた先生だと妹から聞いて納得。 その後、 ・11月 療育センターで診断がおり、 ・12月 「就学相談」で丁寧に聞き取りをしていただき、 4月に市立小学校の普通学級に在籍した上で、週に1回授業を抜け、通級指導教室に通えることになりました。 しかも、在籍校の通級指導教室に。この校区に転居した甲斐がありました。 以前住んでいたところとは違って、送迎不要の在籍校であれ保護者の来校が必須なので、仕事を再開したら大変なこともあるかもしれませんが、やはり送迎する時とは時間の負担も違うかと思うので助かります。 この、通級指導教室についても、随分地域差があるようですね。 今住んでいるのは政令指定都市ですが、教育面、福祉面は、以前のコンパクトシティの方が充実していました。それでも「関東に比べたら10年ほど遅れてる」と仰っていました。 さて、2月に予定されていた「入学前説明会」が、コロナの感染拡大に伴って中止され、配布物を受け取りに行った際に、「娘のことをお話しする機会が欲しい」とお願いすると、「人事異動があるので、年度が替わったらお電話ください」と言われました。 3月にはようやく通級指導教室の決定通知が届き、通級指導教室の先生から娘同伴で面談に呼ばれました。娘と別室で、娘についての聞き取りがあり、お願いしようと思っていた「入学式の前日見学」を、先方から切り出されました。さ、さすが・・・ 物腰柔らかく、終始笑顔でとても感じの良い先生で、安心しました。 昨日、先生から前日見学についてのお電話があり、思い出しました。 「学校への相談」 すぐに教頭先生に電話すると、学年の先生から折り返しがあり、早速今日、1年生担当の先生方と通級指導教室の先生とに、お時間を設けて頂けることになりました。 き、きましたよ、この日が。 11月に、療育センターで「フェイスシート」について教えて頂きました。「先生方お忙しいから、A4サイズ1枚に、お子さんの特徴と、それだけじゃ困るから「対策」を書くようにして」とアドバイスされたのですが、なんせうちの子は家と外とで全く様子が違うので、 集団の中にいる時の娘の様子を、親である私があまり把握できていない(+_+) それに、対策?と頭を抱えたものです。 家での娘については、10月にA4用紙2ページ分に6年分のエピソードを織り交ぜてまとめた記録があり、それは放課後等デイサービスを見学する際に追記修正して3ページになってしまいました。これは、「集団生活時の娘とはかけ離れているだろうけれど、トータルでこんな面もある子なんです」という参考資料として、可能だったらお渡しだけしようと思います。 やはり、転居前に2か月だけ通った療育の事業所の心理士さんが作成して「コピーして、どこにでも配ってもらっていいからね。これからは、お母さんが〇ちゃんの代弁者になってあげてね」と言って下さった、A4用紙1ページに娘の特徴と苦手が記された、親である私のバイブルのような紙をレジュメにして、極力シンプルに(←これが一番苦手)、プレゼンしてこようと思います。 昨日夫に相談して、今日何を伝えたいのかを2人で整理した後に、 私「モンスターペアレントやね」 夫「そんなん、モンスターペアレントじゃないやろ」 私「じゃぁ、めんどくさいペアレント位かな。メンぺ?」 と笑いました。 10年近く前まで中学校・高校勤務でしたが、そっちの立場からすると、保護者からの電話相談や面談、「めんどくさい」なんて思ったことはありません。 また、職員室で実際に「モンペ」なんて言葉は聞いたことなかったです。 当時は経験の浅い、独身の自分。 保護者の皆さんからすると、本当に頼りなかったと思います。 それでも、思春期の育児に悩んでお話しを頂くことも多く、学校だけでは見られない面も分かって、生徒の姿が立体で見えてくるので、ありがたかったです。 「保護者」と「教員」は同じ方向を見ていたいと思うし、チームを組んで、それぞれの立場から子どもたちへ働きかけたり見守ったりできたら心強い、と思ってたはずなんですけどね。 どうも立場が変わると、また急に自信がなくなるから不思議です(笑) 先生も一人の人間で、また、一人、二人と、娘を見守る大人が増える。心強いことです。 件の娘は先週から癇癪再開で情緒が激しく不安定。 やはり、どんなに楽しい場所であれ、「新しい場所」「新しい人」「新しいルール」で気が休まらないのでしょう。「あぁ、春ってこうだったけ。こんなに酷かったっけ」と少しずつ思い出しているところで、これから例年通りなら3か月は続きます(;’∀’) 娘が週末からまた実家にお泊りに行ってしまい、息子も登園してくれたので、先週の「毎日が戦い」weekから一転。お一人様時間を頂いて、今はプレゼン準備に勤しんでいます。 また、今回自分の病気について話して学校に話しておくかを悩んでいました。 結局、現在は経過観察中なので言わないことにしたのですが、環境が変わる度に、「誰に」「どこまで」話すかについて考えます。 腕には色の違う皮膚が大きく目立つし、うっかり髪を結んでしまうと、こぼれてしまった大量の後れ毛。昨夏の放射線治療で一度はなくなった髪が、今伸びてくれています。 いずれコロナが落ち着いてマスクを外したら左右の顔の違いや、角度によっては大きな傷も見えてしまう。 目にした人によっては、心の「それ、なんだろう」が音声になるかもしれません。 その時に、「この人にだったら話してもいいか」と思える信頼できる知り合いが、娘の学校にも出来るといいな、と思う。 さらには「がん」がタブー視されなくなったり、「うちの子は発達に凸凹があってね」っていうのを、偏見の目を怖がらずに気軽に話せるようになったりしたらいいな、そして会話が広がって、お互いに情報共有や理解ができたらいいな、と思う、春のこの頃です。
作成日 : 2021-04-06 14:35:44
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ぜんぶ薬のせいにしたい
8月から精神科で処方された薬を飲んでいるけれど、 飲み始めて1か月頃から効果が出始め、同時に体重増加の原因がこれかも、と思い当たりました。 関西にいる間は5㎏増をキープ。 「それ以上は増えないように」と言われていましたが、福岡に来て現在、9kg増。 メンタルの調子も安定しているし、それ以上に太ったことで悩んでいると訴えたのですが、薬を変えるには至らず。 そうこうしていたらクリスマス頃から、コントロールできないほどのイライラが。 1月の受診時に、飲み続けている薬の副作用を指摘され、はじめて減薬指示が出ました。 結果、一人になった途端、メンタルめっちゃ不安定。運転中さえ心もとない。 でも、イライラが爆発したトラウマの方が大きくて、次の受診時に減量キープを訴える。 却下され、薬の量戻りました。 メンタル安定。でもイライラは健在。 イライラが女性特有の周期と一致していることに気づいて少し安心はしたけど、出されていたイライラ対策の薬は運転前には飲むな、との注意があり、毎朝保育園まで運転必須なので薬飲めずじまい。(送った後は一人なので、イライラしない) この週末。実家を訪れ、母に責められた際にイライラが爆発。 とてもここで言えないような、言ってはいけないセリフを叫んでしまいました。娘の前で。 驚いた父が止めてくれたのですが、涙が止まらない。 もうめちゃくちゃ自己嫌悪だったけど、「自分を責めたらいけない」と父が優しく慰めてくれたので、自分のための言い訳をつくってあげました。 だって、1日目でホルモンの影響受けまくりだし。 そもそもメンタル不安定だから薬飲んで治療してるんだし。 その薬のおかげで何とか保ってるところ、唯一の支えになってる「育児」を否定されたら、もう自分の何を認めてあげたらいいんだかわからない。 ってか、その薬の副作用でイライラ増してるんだし。 それでもやっぱりいい年してあんな失敗するなんて情けなくて、立ち直れない・・・ 娘は実家に引き続き泊まると主張するので、息子だけ説得して2人でそそくさと自宅に帰ってきました。 もう当分、実家には帰れないなぁ。 病気が分かってからすっかり優しくなった母と復縁できて喜んでいたけれど、そういえばいつも母とは揉めがちでした。それすら忘れていたけど、母に傷つくたびに父に救われてきたことも、やっと思い出しました。 父、ありがとう。(でも恥ずかしいから言えない) さて、ぼっこり両瞼が腫れてしまった今日の話ですが、物の扱いが荒めの息子が、数か月前に壊した100均のプラスチック製ミニカーを、不意に思い立って、最近買ったばかりのプラスチックにも使えるアロンアルフアEXTRAで、くっつけてみました。 なんか、左目が急に痛い。 慌てて洗面所の鏡を見に行くと、左目が充血している。 接着剤の注意書きを見ると、 <応急処置> 目に入れないよう充分注意する。目に入ったときはすぐに洗顔し、医師の診察を受ける。 と書いてある。 「医師の診察」って、今日は日曜日なのに、なんで普段起こらないようなことが起こるんだろう・・・ でも、瞬きはできる。 触ってみると、左の下瞼に水のりが乾いたときに出来る膜のようなものが。 「何でこんなところに付いたんだろう」と左手を見ると、爪にマニキュアのような透明の固まり。 左手に持ったミニカー →親指の爪 →下瞼 →成分のみ目に入ったに違いない。 「目に入った時の応急処置」を見るたびに、「目に入るわけがない」と思ってきたけれど、 あったわ。 (その後、レンチンした蒸しガーゼで左瞼の乾いたアロンアルフアを慎重に拭き取ったら、痛みもなくなりました。) ぜんぶ薬のせいにしたい。
作成日 : 2021-03-22 00:16:34
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3月17日。親友の誕生日は、私の手術記念日。
朝「一周年だ~」と言ったら、夫に「そんなおめでたいことみたいに」って笑われましたが、今日で手術からちょうど1年です。 私の左腕の一部が、口内の皮弁1歳になりました。 利き手じゃなかったばっかりに、ある日突然、景色も見えない口内に行くなんて思いもしてなかっただろうに、健気に新しい場所でがんばっている皮弁に、ほんと感謝です。 耳鼻科、形成外科、歯科の医師とスタッフ総勢10名以上での10hのオペと聞いています。 コロナ禍、予定通り手術が出来たのも、こうして今私が日常生活を送れているのも、このスタッフ皆様のおかげ。 当日は夫が子どもたちを朝一で保育園に預け、9時からのオペに間に合うよう、病室に来てくれました。 着圧ソックスに履き替え、看護師さんに誘導されて手術室前で夫とバイバイ、と別れてからの、「緊張」。 過去にあれほど緊張したことは、たぶんなかったです。「心臓が出そう」ってわかる。 オペ室でベッドに横になり、初めて顔を合わせる先生や看護師さんから声をかけられ、あれ、トップの主治医の先生はいない・・・と不安に思ってると、室内にオルゴールのBGMがかかりました。 「これ、なんだっけ」と集中したら、癌がわかってからずーっと聴けなかった大好きなミスチルでした。箒星。 「あぁ、ここでミスチルなんだ。 結局私はいつでも桜井さんに力をもらうんだなぁ」と思ったら、涙がつーっと流れて、でも動けないから拭けなくて。 すぐに部分麻酔がかかり、気管切開の執刀をする若い主治医の先生を、先程の中堅の先生が叱り飛ばす。 「下!下!何でそんなに下行くの?〇〇先生、きせつ(気管切開?)の講義受け直したら?」 私の喉はどうなっているんだろう、と思いながらも痛みはなく、ただ血が流れている感覚だけがあって、次第に意識がなくなっていきました。よく見るカウントもなかったな。 ****************************************** 去年の今頃は毎日がドラマの中みたいで、詳細まで覚えていたりします。 今年1月頃から、何かにつけて夫と1年前を思い出していました。 「去年は年始に呑気にあっちゃんと『義母と娘のブルース』の一挙放送見てたよね。」 「ママが入院するって分かって、あっちゃんが「ママもみゆきちゃんのお父さんみたいに死んじゃうの?」って聞いたんだよ。」 「去年の今頃は、まだ癌なんて分かってなくて、映画村行ったよね」 「楽しかったな~。あっちゃん愚図って逃げて家族写真撮れんかったけど。」 「去年の今日、車の契約したよね。その3日後には癌が分かって解約しようかとか言ってたけど、やっぱり買ってよかったね。」 と、何かにつけて夫と1年前を思い出していました。 そのおかげか、普段イライラしている夫が穏やかだったり、子どもの卒園入学を前に9kgも太って悩んでいる私に「太ったくらいいいやん」と嬉しそうだったり、「長生きしてくれたら何でもいいよ」なんて普段言ってくれないことを言ってくれたり。 ここ3か月半、1年前の振り返りをしてきて、やっぱり手術当日は今や誕生日並み(笑) 4月からの娘の放課後等デイサービスの契約に今日を指定され、後から気づいて、「まぁ、こんな感じで日常の中に埋もれるんだなぁ」なんて思っていましたが、CPのニュースで以前から気になっていた猫舌堂さんとの合同イベントを知り、運命を感じて参加させて頂きました。 とっても楽しい時間で、何よりのお祝いになりました(*’▽’) 先日は「孤独」と日記で呟くなりCPの先輩方からLINEがきたりプチオンライン会を開いて頂いたり、人と繋がることが心への何よりの薬だな、と身をもって感じるこの頃です。 みなさんとのつながりのおかげで、今日この日をこんなに幸せな気持ちで過ごせて、CPの存在に感謝せずにはいられません。いつもありがとうございます(^-^)
作成日 : 2021-03-17 15:47:35
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退職後も傷病手当金を申請するにあたって 【お金のお話】
結論から申し上げますと、 傷病手当金を受給中に退職し、その後も引き続き受給申請する場合、退職後の健康保険はどこに加入していても問題ないようです。(受給条件は満たしている必要があります) なぜ、こんなことをわざわざ言うかと言うと・・・ 私は退職する際に、「退職後も傷病手当金を受給したい場合、任意継続で今の健保に加入する必要がある」と会社から説明を受け、退職後、年金は夫の扶養に入り、健康保険は自分で支払って、以前の会社時代の健保を任意継続していたのです。 今月、そろそろ傷病手当金の受給も難しいかもしれないと判断するようなやりとりが主治医とあったので、健保に「退会後にも過去の申請はして問題ないか」と問い合わせたところ、冒頭の回答が来たのです。 「え・・・遡って退会することは・・・」と聞いてしまいましたよ。ダメでしたけど。 だって。 退職後、トータル71,000円。夫の扶養に入っていたら、支払う必要がなかった出費。 しかも、退職後、転勤して転院した主治医に、「証明する」と言われてからの任意継続だったけど、先日再度主治医に話をすると、証明断られて。 傷病手当を受けたら健康保険料支払えると見越した上での「任意継続」だったのに。 分かってるんだけどね。私の復職を躊躇うのは、もはや「癌」そのものが原因じゃなく、「手術によって変わったアピアランスや、会食(勤務中の昼食)への抵抗、そして「癌」になったことで、職場の人々から全く望まない対応をされたことへのトラウマ。 癌の主治医ではなく、同時に通っている精神科に変更しようかと、在職中から病院に相談し、その時は「耳鼻科で書くよ」と言われて転院するまで耳鼻科のみに証明してもらっていたけど、今となっては、「在職中から病名が変更ないこと」という条件を満たせないので、当時すでに罹っていた精神科の病名も証明してもらっておけばよかった。 お金と言えば、息子出産時に来てくれた母の「お母さん、やっぱり癌じゃなかったと思うの。あんたも癌保険にそんなにかけなくても、月々の生活を苦しめないでいいんじゃない?」という言葉を真に受けて、女性の癌は遺伝しやすいと思ってかけていた医療保険・入院保険の契約を切った、たった2年後に癌で1か月も入院して、その後も毎日通院して・・・ ほんと、お金に縁がないなぁ、と思う。 70,000円あったら、工房のランドセルが一個買えるのに。(子どもの入学準備脳) めっちゃくちゃ使いたいことあるのに。 出費に意味がなかったって・・・どよーん。 もし、万が一、私のような勘違いをされている方がいたら、加入されている健保を確認してみてほしいなぁと思って。 って、なかなかいませんかね。お金のこと、制度のこと、ほんとに苦手です。
作成日 : 2021-03-15 22:35:45
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コロナ禍の孤独
去年の1月に癌の疑いと診断されて以降、同時に広まったコロナへの感染を予防するために、プライベートで人と接することがなくなりました。 また、入院を機に休職して以来、自宅で過ごしているので、会話するチャンスは通院、送迎時の保育園のみ。5年間お世話になってママ友や先生たちに恵まれていた京都の保育園を去ってからは、孤独感増。 福岡に戻って最初の1か月は妹とも頻繁に会えていたけれど、コロナの感染拡大に伴って年末から控えて会えず。 元々「人と繋がりたい!!」とサークル活動や習い事が大好きだった私は、この1年間うずうずモヤモヤしているのですが、入院が決まった病院の患者会はまさかの手術日! その後コロナで休止。 今の病院には患者会なし。 もしコロナがなかったら、患者会に入りたいし、新しいママ友にも出会いたい。 もしかしたらオンラインミーティングなるものがあるかもしれないし、繋がっていれば、コロナが終わればオフ会があるかもしれない。 と、うずうずが溜まると検索してはみるのですが、まだヒットしていない。。。 気になる福岡の「頭頸癌の患者会」もhp見つからず。 CPにも、初めの4か月たどり着けていなかったし。検索が下手なだけかもしれません。 昨日、病院のがん相談支援センターを初めて訪ね、「この病院には患者会がない」「他の病院の患者会も今はコロナで実施していない」という事が改めて分かり、同時に相談員の方がとっても優しくて、「やっぱり自分は人と会って話したかったんだなぁ」って再認識しました。 先月から、今の症状に合わせて精神科の薬を半減した途端に、あの「どうしようもない不安感と焦燥感」に毎日とらわれて数日してから自覚して、あぁ、環境が好転して治ったんじゃなくて、薬でコントロールできていただけだったのかぁなんて自信をなくし、でも寂しくてやっぱり気持ちは外に向いていて。 元々の友達とつるめたらいいんだけど、福岡の友達とは離れていた12年半の間にほとんどの友人がずいぶん疎遠になってしまったし、「帰ってきたんなら会おうよ!」となるのが怖くて、術後の顔のアピアランスが1~2年後に元に近づく、という担当医の言葉を信じて、それまでは元の顔を知っている友人と会う勇気がなかったりするめんどくさい一面もあり。 いや、職場や馴染みの美容室で、癌について原因やらステージやら根掘り葉掘り聞かれてしんどかった去年のトラウマが一番かな。 一方的に面接受けているような、答えたくないが通らないような、後から物凄く傷ついていていることに気づいて落ち込むような。 あまりにプライベートな、体のこと。そして心の変化を、好奇の目に晒されたくない。 ただ共有したい。安心して話したい。経験談が聞きたい。 (このトラウマが、復職を躊躇う一番の原因になっています。) きっと癌かどうかにかかわらず、今世界中の多くの人が孤独感で悩んでいるのではないかと思うのです。 皆さん、どうやってこの状況を乗り越えていますか。 そして、福岡の頭頸癌の患者会「えがおの会」をご存じの方はいらっしゃいますか? CPのオンライン会も、引越し後のバタバタで何度も逃してしまい、まさに参加したい会を見つけたのに、定期検査の日でした( ;∀;) 参加はできないけれど、声にする勇気すらなかった自分の思いが叶った気持ちで、勝手に嬉しいです。 CPの皆さんの投稿や返信から、それぞれにお忙しい中で、そして痛みや不安と戦ってらっしゃる中で、優しさや心のつながりを感じます。ここがなかったら、孤独がどんなに大きくなっていただろう、と思うと怖いです。
作成日 : 2021-02-09 16:44:45
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小さな喜び
マスクの下で、にやけてしまいました。
作成日 : 2021-01-18 10:07:59
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京都→福岡
今から半年程遡ります。。 ・ 3月中旬から1カ月入院しました。 その間に、階下から我が家の足音、声に対して苦情が。 階下の家族が越してきて2年間、特にトラブルもなかったのに、急になんで? 子どもたちが保育園に登園する時間が1時間早くなったから? 一方、下の子どもたちは小学校が休校になって起きる時間が遅くなったから? 色々考えてみても、迷惑をかけているのは事実。 クッションマットを大量に買い足して2重に敷き詰めても、子どもたちへの声掛けを増やしても、私が退院してからも、 毎月2週目の頭になると管理会社経由で苦情の連絡が入り、自宅で神経を使う日々。引越しを考えるようになりました。 上の子が0歳児の時からのママ友親子が多数いる環境で子育てを続けたかったので、校区内での家探し。 ない。 賃貸は同じような造りのハイツばかりでマンションはなく、戸建ては分譲ばかり。 転勤の可能性が0ではなく、二人して地元は福岡。ここで家を建てる覚悟はまだなくて、八方塞がり。 夫がエリアを変えて、子育て世帯におすすめされる、吹田や豊中の物件を探すようになりました。 ママ友と離れて一人になるの? 子どもは別の小学校に入学するの? ・・・・なら、福岡がいい。 ・ 4月中旬に退院してから、朝子ども達を送り出す時に急に湧き上がる「もう二度と会えない」という強い不安感。 その日子ども達と再会するまで、何も手につかなくなるほどの焦燥感。 ・ 5月。放射線治療中の体調不良に備え、福岡の母が長期で京都に来てくれました。 メインの耳鼻科、歯科、形成外科の為の大学病院に加え、 組織移植で部分的に失って不自由な、左腕のリハビリに通い始め、 週2、3回子ども達をおいて家を空ける様になりましたが、 前述の不安感、焦燥感を感じることが全くなくなりました。 ・ 7月。放射線治療中の私の為に、コロナを警戒する夫と母の気持ちと、 階下からの苦情が続くプレッシャー、 私が外遊びに連れて行けず子ども達が思い切り遊べていないこと、 色んな葛藤の末、自粛していた子ども達の保育園生活を2か月半ぶりに再開。 ・ 7月14日。 30回の放射線治療が無事に完了。 akiraさんにお会いできるとあって、 週明けはあっという間にその日を迎えることが出来ました。 当日は雨だったのに、わざわざ私の通う病院まで来て下さって、 手書きのお手紙とピンク色の花束を頂き、感激。 (「この花束の写真とともに喜び日記アップ!」と思っていたのに、 突然 i phoneが潰れ、PCも潰れ、 修理や買い替えが完了した頃に「タイミングを失った…」と、隠れておりました(・・;)) その時、「私、自分が病気だということを普段忘れちゃってて、考えて落ち込むことがないんです。」とお話しして、 「それはいいじゃないですか」と笑って頂いたことを覚えています。 当時こちらの日記で「皆さん真剣に病気と向き合ってらっしゃる」と感じる一方で、 退院以降、毎日目の前の子ども達に振り回され、校区内の物件を探す日々。 病気と全然違う悩みを抱えていたせいか、自分の病気に向き合えていないから落ち込まないのかもしれない。 逃げてる?という感覚がありました。 それでも毎日楽しく過ごしていたのですが、放射線治療が完了し、 長く滞在してくれていた福岡の母が、「そしたら2日後に帰るね」と言った途端、 急に「もう、今後どちらかが死ぬまで会えない」という強い不安にとらわれ、 気持ちが動揺して急にイライラしたり落ち込んだり。 そこでようやく、自分がものすごく病気や死を恐れていることを自覚しました。 4月の退院以来、耳鼻科では「精神科も紹介できますがもう少し様子を見ましょうか」と言われていましたが、 8月の受診時に「紹介しましょうか?」と言われ、お願いしました。 私の不在時に見かねた夫が母に相談し、母が帰宅を延長した途端に気持ちが安定。 一方、緊張型、混合型の頭痛持ちの私が過去に経験したことがない、 1秒毎に電流が走るような偏頭痛に連日襲われ、頭頸部の癌だったこともあり不安に。 耳鼻科の主治医に「自律神経が乱れているのかもしれない」と指摘されたことで安心したのか、 ちょうど一週間続いて、CTの結果が出る前に収まりました。 精神科に通い出してちょうど1か月程たった頃、 「以前ほど強い不安には襲われてないな。」と自覚する様に。 薬が効くのに1か月かかると言われていた通り。 「だからと言って、やる気が起きて何でもこなせる、という訳でもなく、 何も手につかない状況ではないけど、やりたくないなと思いながらも最低限の家事をする程度。」 と精神科医に伝えると、薬の効果として適正な感想とのこと。 ・ 8月頭。夫の誕生日。 この頃、「ここじゃないなら福岡」という私の希望に、夫がOKをくれて、主治医に福岡への転院を相談。 ・ 9月頭。娘の誕生日。 この頃、夫が会社に転勤の希望を伝え、転勤が内々定。ネットで福岡の物件探しスタート。 娘の就学前相談、療育機関、保育園の空き状況など、福岡市内各所への問い合わせスタート。 6歳になった週に、娘が療育を受けられることに。 3歳から相談し続け、あまりお勧めされなかった療育施設に行ってみて、 6年間の私の悩みが他人に初めて理解されるという体験。 たった2か月しか通えなかったけれど、ここで丁寧に関わっていただき、 娘は目に見えて(療育当日は)満たされていました。 今後の娘のために、そして私たち親のために、最大の助けを頂きました。 ・ 9月下旬。息子の誕生日。 ・ 10月頭。8年半お世話になった会社を退職。 夫の辞令が総務に伝わり、物件探しにGOサインが出て、子連れ弾丸家探しツアー決行。 コロナ禍、買物や外食、旅行。我慢し続けたのは何だったんだ?と可笑しくなるアクティブさ。 ・ 10月末。夫が特別休暇をもらい、ようやく私も荷造りを本格化。 最終日は二人とも貫徹でどうにか完了。 福岡まで初めての高速移動。(運転はすべて夫) ・ 11月頭。福岡で新生活スタート。 怒涛の2020年。 がん告知、人生初の入院、手術、治療、に加えて、12年半ぶりのUターン。 さすがにもうイベントは控えていないはず( ´艸`) 2年前、大阪北部地震や台風(停電)の際、助けてくれる友達が複数いて、 やっと故郷を離れて暮らす覚悟ができたと思ったのに。 自分の根っこがぐらついて、隠していた本音が出たのかもしれません。 もう槇原敬之の「遠く遠く」を聴いても、泣かずにいられる気がします。
作成日 : 2020-11-15 01:45:29
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放射線治療の記録
放射線、前半が長くて長くて・・・・ やっとゴールが見えてきました。 ・幹部は左臼後部 ・耳の上のラインから鎖骨の下までが照射範囲。左半身を前後から。 ・66Gy ・全30回(週5回×6週) 【1~4回目】(土日含めると6日間) 放射線宿酔 <対策> ・食前に吐き気止め(ドンペリドン) ・鎮痛剤(ロキソニン) ・眠る ・空腹状態を避ける 【5~8回目】(土日含めると6日間) 梅雨の低気圧が原因の頭痛に悩まされるも、放射線の影響はあまりない穏やかな1週間。 【9回目】 ・歯科受診で、唇の内側に口内炎を指摘される。あまり痛まず2日ほどで小さくなる。 ・土日を挟んで久しぶりの照射だからか、蓄積された回数のせいなのか、照射後吐き気。(この日以降続く) ・開口訓練器を加える度に、えずくようになる。それを機に吐き気が始まる。 <対策> ・うがい(アズノール) ・吐き気止め(ドンペリドン) 【10回目】 ・舌の左側に、大きな口内炎の様な白い炎症。 ・左だけ、首、鎖骨周りにニキビが一気に出来た。 【11回目】 ・この日から、シェルの一番下を「そこはいいです」と止められなくなった。 まさか放射線治療中にも関わらず、太った?? 【13回目】ここで一気に副作用スタート ・左後頭部洗髪時、まとまった量の髪の毛が抜けた。 髪を濡らし、シャンプーで洗い、すすぎ、トリートメントをつけ、流し、向きを整えつつ水を切り、タオルドライ、手櫛でオイルをつけ、ドライヤーで乾かし、整える。この日以来、10工程の一つひとつにまとまって抜けてしまう髪にビビる毎日。 でも、よく見ると毛根がついていない気がする。抜け毛じゃなく切れ毛?? ・食事をすると、まず舌に当たる時、咀嚼で舌が動くとき、嚥下して喉に当たる時、猛烈に痛い。 ・連動して、左耳、左こめかみが痛い。 父の日に、母のアイデアで寿司好きの夫(と娘)のためにスシローでテイクアウトしたけれど、自分はほぼ食べられず。 こどもの日のテイクアウトは、わくわくして楽しかったのになー( ;∀;) この日、でも寿司しかなかったので、めちゃくちゃ痛いのに、1時間以上かけて意地になって食べました。 大好きなコーンといかめかぶオクラ軍艦!フライドポテト! 正面で泣きそうな顔で私を見つめる母・・・・そんな顔しないで。 ・特に起床時の口内の粘着きがすごい。目覚めると大量のねばねばの唾液。(ごめんなさい!!!) それを口から吐き出すためには、舌や口内の筋肉を思いっきり使っていたんだな、と気付くくらい猛烈に痛いし、血が混じっている。 ・週末の口内の痛みに伴い、毎食前に行っている開口訓練器を口に入れるのも辛く、いつもと同じ時間行っても開きが悪い。 歯科受診時、放射線照射時に口内(歯など)を保護するために加えるスペイサーが、口に入らないほど口が開かなくなる。 <対策> ・口腔被膜剤(エピシル)を塗布 ・寝る前、舌の左側面に軟膏(デキサメタゾン) ・鎮痛剤(ロキソニン) ・開口訓練器を病院に持参し、待ち時間に一番奥の椅子でこっそり実施。 ・食事 【17~20回目】 ・左後頭部(脱毛が多いところ)に痒み。ふと掻いてしまい、更に髪が抜ける。 洗髪時、皮膚にぶつぶつと発疹が出ているのに気づき、家族に確認してもらう。 皮膚の発疹、脱毛、ともに肯定される。どうも切れ毛ではなく抜け毛だった模様・・・ <対策> 頭皮に弱いステロイドを塗布 →7月1日から痒みが治まる。発疹もほぼなくなる。 【18回目~現在】 ・急に、夫の前に用意された母の野菜炒めが食べたくなり、久しぶりに普通食を食べてみたら・・・痛くない!! 結局一皿完食しました。夫、喜んでメインを提供してくれてありがとう。 おそらく、喉と舌の炎症が少し落ち着いたのではないか、と思うのですが、毎日照射されていてそんなことあるのかな。 19回目の歯科受診時に聞いてみましたが、口内も喉も炎症で赤いそうです。 ・頭痛。鉛のかたまりが体内に入ってバランスを崩すような不思議な体の重さ。吐き気?とにかく「具合が悪い」としか説明しづらい初めての感覚。 なぜ照射がない土日にしんどいんだ、と思うけど、放射線は蓄積されるものだから、金曜日と同じレベルのダメージを体は受けているのかな。 【20回目~】ついに来た!! 帰宅後なぜかスナックが食べたくなり「サッポロポテト」を食べると・・・無味。強烈な匂いはしているのに。 驚いて別のスナックを試し、「しょっぱい」味覚を失ったことが分かりました。 辛いのがダメで普段食べられない「ベビースターラーメン」を試すと、食べられる!!と思った後に辛さだけがくる~。 一口食べては食べやめたサッポロポテトの袋を、ショックに浸っている隙に息子が完食Σ(゚д゚lll) この日の夕食は、私の好物。母の煮込みハンバーグでした。 たっぷりかかったソースの味がしない・・・実に不思議な感覚で、私が食べるのはもったいない・・・と思いながらも、栄養を摂取すべく完食しました。 20回の節目に、くるのか、くるのか、いつ?とドキドキしていた副作用がきました。 一方、口内は常にしょっぱくて、つわり中のような不快感。 その塩っぱさを消したくて何かを食べても全く塩味を感じない、不思議な矛盾。 【21回目~】 ・一旦落ち着いた舌にまた炎症。痛い。食事に加えて、発話も痛くて辛い。少し活舌が悪くなる。動かさなければ大丈夫。 ・洗顔時、「痛い!」と思ったら、鏡に映った左頬が真っ赤に、一部だけ日焼けした様に色が変わっていました。 少し前から、母が「左だけ首が焼けてる。黒くなってるよ。」と言っているので、外からの炎症も始まってるんですね。 放射線科のスタッフの皆さんが毎日「変わったことはない?」と聞いて下さるので、小さいことも報告しています。 強い痛みで薬で緩和した方がいいと判断された時には、毎週1回のDr.の診察を急遽入れてくれたり、他の科の予約を取ってくれたり。 お陰様で、症状が出る度何かしら対策をさせてもらって、1週間待たずにきつい状態が落ち着き、 また新しい副作用に悩んで試行錯誤する・・・という感じです。 毎日行くのは憂鬱でたまらないけれど、照射中は、7回目頃に慣れ、 照射を示すブザー音、私は7回なんだなー、とか、 最後の2回は後頭部から当ててるんだなー、とか、 直前に読んでいた辻村深月の小説の続きを考えたり、 それまで読んでいたところを反芻したり、 CPのお友達からのメッセージの返信を脳内で書いていたり、 照射直前に読んだ別の方の日記の、おもしろかったところを思い出し笑いしちゃったりとか、 考えさせられる投稿に、実際にはコメントする勇気ないけど脳内ですごーく返信を考えていたり、 副作用が分かるたびに私を見つめる母の心配そうな顔を思い出して、申し訳なくて涙が出てきたり、 見ないようにしていた照射の機械、1回のブザー中に銀色の板がすーっと動いて変形している!これで調節しているの?とか、 天井についた装置に書いてある英語の注意書き(上下逆さま。誰宛て?)の、主語が4単語?初めの2単語はサブタイトル?なんて訳すんだろう?と読むたびトライしたり、とか。 やっと暗記できたりとか。 今日はなんだかしんどいな。部屋で鳴ってる周りの複数の機械音もすごくつらいな、とか。 そんなことを、約10分間の黙想タイムに考えている毎日です。
作成日 : 2020-07-08 15:18:22
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七夕、竹馬、保育園。
保育園で毎年1人一枚、クラス毎の笹に飾ってくれる短冊。 年長になると本人記入用、保護者記入用の1人2枚に。 昨年と比べて、親子で願いがリアルになってきた。 4月半ばの退院翌日から登園自粛してきたけれど、6月に要請解除されてからも、コロナ含め感染症予防での登園自粛。 ・感染症怖い ・子ども達いないとメンタル落ち込むからもっと怖い ・2人は休園喜ぶ でも ・持ち上がりで娘を担任してくれている先生に、竹馬の練習もしてるし6月からは全員登園してるし連れておいでと電話で言ってもらい ・放射線治療後帰宅してしんどくても、横になると2人して起きろと暴力的で、全然横になれない ・最終学年なのに私の理由で休ませてていいの? ・コロナ渦中に始まった階下からの足音の苦情。平日は朝と夜しか居なかった3人が24時間在宅してるせいだろうなぁ。 ・弾むように歩く息子に注意し続け、だからと言って夫の休日以外は外出も0で、2歳児に酷すぎるよなぁ。 と、どちらがいいのが迷いながら悩みながらの2カ月半でした。 今日、延期続きの娘の発達相談に夫も母も急遽一緒に行くと言ってくれて、久しぶりに登園することにしたら、娘は昨夜から大興奮! 先生も友達も大歓迎してくれて…こりゃ一日だけなんて言えないわ。 毎年恒例、年長になると竹馬の練習に取り組んで、その効果を10月の運動会で発表。 1人ずつ、それぞれの高さの竹馬で半トラック歩く間、BGMのように担任の先生からのメッセージが涙ながらに読まれるので、観ている保護者は他学年でも涙涙… あぁ、○年後には…と自分の子のイメージを重ねながら、目の前の年長さんの努力と雄姿に声援と拍手を送り、年長に進級すると「あぁ、ついに竹馬の練習が始まるんだなぁ」と思ってた。 娘は、私にそっくりな運動音痴で、さらに完璧主義者で自信がないものに取り組むのがとっても苦手。 寝返りも、歩くのも、遊具も、何でもみんなより随分遅くて、その原因は能力以上にメンタルだったから、竹馬もすご〜く心配だった。 の、に、私理由の休園。 1人だけ参加させていない竹馬練習。 梅雨の晴れ間の今日、初めて竹馬練習に参加した娘。 まずは両手で持ってジャンプ、の練習だったそうで、 「がんばりマメできたかなぁ」とか言いながら手をチェックしてました( ̄∀ ̄) これからいっぱい練習してマメ作って、いっぱい転んで、失敗しても大丈夫なんだってこと体験して、友達と励まし合って、そして願わくば乗れるようになって自信つけてほしいなぁ。 息子は去年の願いが叶って元気100倍なので、少しシンプルにまとめてみました。 もちろん、元気100倍な息子が私は可愛くてたまらないんだけどね、ちょっと手を焼いて困ってる家族もいるしね(゚∀゚)
作成日 : 2020-07-03 00:55:57
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【放射線宿酔】と退院後3回目の頭頚部受診の忘備録
放射線治療の記録 1週目は3回の照射で、それぞれ照射30分後位から、 ・吐き気 ・頭痛 ・しんどい ・服痛、下し ・喉に軽い痛み(唾を飲む時のみ) ・左後頭部の皮膚にピリピリ感 そのタイミングで放射線科診察があり、吐き気止めが処方され、ロキソニンも飲んでいいと言われ、金曜日の病院帰りに薬局へ。 その後は食事前に吐き気がコントロール出来て、頭痛さえ引けば快適に過ごせるように。 食事をスキップしたのも、2日目の夕食のみ。 土日は放射線が休みで、この2日間の中休みがどんなに大きな存在かを思い知りました。 しかし…なぜか土日も同じ症状に悩まされ、結局寝込む時間が。 そこにやってくる2歳の息子。 吐き気と服痛の最中にお腹に乗ってきて、しつこく降りず、 手術後の左顔面、触られるとまだ痛む左前腕を庇って 「やめてって」 と背を向けると 「ごめんなさい…」と離れ… 気がつくと私は眠っていたようで、見ると隣の布団に眠る息子の姿が。 そこで眠る前のやりとりを思い出し、「眠いからしつこくまとわりついていたのか」と、いつもなら分かることに初めて気がつき、息子が居た堪れない… 夫は出勤。 母が長期滞在してくれているけど、子ども、特にイヤイヤ期の息子は手に負えず。 母親に背を向けられるなんて寂しかっただろうなぁ。 まだ治療の出だしなのに、これからどうなるんだろう… 思いがけず凹んだ週末。 そして憂鬱過ぎる月曜日。 【4日目】 吐き気止めは頓服で、毎日ちょうど2回ずつ。 次の受診日まで薬がもたないので、急遽診察してもらい、処方してもらう。 帰宅したら私はいつも通り気分が悪く、ひと休み(毎回、本当に眠る) でも無理して子どもたちを公園に連れて行こうと、2時間外気に触れたら ・・・復活 【5日目】 元気。 夕食時、虫刺されに気づく。 22時頃、虫刺されが数十か所に増えている。 母に「やっぱり蚊に刺されてたよー」と言いながら痒み止めの軟膏を塗っていると、息子がやってきて、 「ママ、カニが食べたん?悪いねー。〇〇が助けてあげる!!」 「ありがとー。優しいねぇ。」 このやり取りが寝室に移動して彼が寝るまで続く。 4時頃。猛烈な痒さで目覚めると、虫刺されが世界地図状になっている。 ・・・蚊やなくて蕁麻疹やった( ゚Д゚) 痒い。痒すぎて眠れない。保冷材で冷却。 【6日目】頭頸科受診日。 普段より2時間早く、昼食をとらずに家を出て、2時間近く頭頸科で待って、気持ちが悪くなって吐き気止めを飲み、次呼ばれる、という順番で照射の時間。 理由を言って、照射から戻ってみると最後に回されたようで、また順番待ち・・・頭痛薬も飲んだけど、吐き気も頭痛も収まらない。 滞在4時間+頭痛時に往復1時間の運転=疲労 帰宅してからずっと横になって、でも頭痛で眠ることも出来ず、吐き気止めの時間が切れるのを待って再度服用し、 夕食時。しれっと食卓へ。母の手料理を完食。復活。 どうも、空腹時に吐き気が起こる、ということが6日目にして分かる。 1か月ぶりの頭頚科では、外来最後だったので気になっていたことを全部聞いてみました。 ・最近、左顎に一瞬で消える痛みを感じます。 →(診て)問題なさそうです。5月20日の造影剤CT結果も異常有りません。麻痺が取れてきているのかもしれないですね。前向きに捉えましょう。口は、固着が始まってますね。頑張って訓練してください。 ・先週は~の症状がきつかったですが、処方された薬でコントロール出来るようになり、今週は楽です。喉の痛みも消えて、口内の症状がないので食事も採れています。 →放射線酔いですね。早くから症状が出た人は、すみませんが初めてです。 ・先週は皮膚がピリピリする感じでしたが、週末から痒くなってきて、洗髪時には何だか違和感があって、強くこするとずるんと皮膚がずれそうで怖いので、力を入れずに洗髪しています。術後麻痺も残っているので変な感覚だったのですが。金曜日には赤くなっていると言われましたが、照射焼けでしょうか。 →~になっているかもしれませんね、失礼します。あ、なってますね。 怖がらずにガシガシ洗ってください。ニキビの様なものです。ニキビケア、分かりますよね。 ・ケトン食の本を読みだしたのですが、勝手な判断で実行するのもよくないとは思うのですが・・・ →初めて聞きましたね。放射線は体力を消耗しますから、バランスよく食べてください。 ・昨夜から蕁麻疹が~(多分、最初に聞けばよかった) →明日、皮膚科の予約をとりましょうか?紹介状書きますけど。 ・え?あ、それなら近所の皮膚科でもいいですよね! (明日もここに来るなんてありえない!!!遠いし待ち時間長いし、子ども達預けてるのに。もう今日一日でぐったり。) →はぁ。皮膚科では~を確認してもらってください。この薬は問題ないと思うので次の受診日まで処方します。 その後の会計でようやく「明日もあさってもここに来るんだった( ゚Д゚) 放射線の日に別の病院にも行くとか、時間的にも無理・・・」と気付いたのでした。 こういうポンコツっぷりに、自分でも疲れる約40年。いや、自覚してからは25年。 大きな病気も分かって悩むけど、結局この残念な自分と、日々の育児の悩みを越せてもいないような・・・同率一位で全部しんどい。 そういえば先生、断った時に少し意外な顔をしていた様な・・・ いや、「こいつ長いな」って思ってただけかもな・・・ この日、初めてお会いする若い看護師さんから処方箋と予約票を受け取った際、 「今、頑張られているんですね」 と声をかけられ、 放射線科の予約でびっしり埋まった予約票を見ながらの言葉だと気づいて、 「はい、がんばってます」 と答えると、 「何でも言って下さいね! ・・あ、一番はもちろん放射線科のスタッフがしっかり支えて下さってると思うんですけど・・・でも、私たちのことも忘れないで下さいね!!」 と。本当に、こういう人の温かさには、力がある。すごくうれしかった。 【7日目】 ・朝、蕁麻疹が消えている!! そもそも四肢にしか出ずに、体を移動することなく消えている。 過去の2回の世界地図蕁麻疹は、注射を打ちながら抜けるまで5日間くらいかかったのに・・・ ・先生のアドバイス通り左後頭部も指の腹で思いっきり洗ったら、大丈夫だった!痒みも収まってきた。あのピリピリは炎症じゃなかった!! ・ケトン食の本を読むのは一旦やめて、控えめにしていた米やパンも普通量摂取再開。 ・これまでの照射後の体調不良一切なし。 14時には帰宅し、子ども達とおやつを食べ、15時から3人で夕食を作って、16時から3人で入浴。 パパをの帰宅を待たずに(おい)18時から4人で夕食。 19時に息子就寝。(昼寝3時間) 普段より前倒しで時間に余裕あり過ぎる夜。今日こそは早く眠れる・・・と大人3人が期待したこの日、娘がなぞなぞにハマり、4人で22時までなぞなぞ大会。まぁ、いいか。 【8日目】 引き続き快調。また、中休み。 「今日は体調がいい」という喜びを感じ始めてからも、「いよいよ副作用が今日の照射で始まるのかもしれない」というドキドキも、毎日感じてはいます。 しかも、それは夫や母も、自分のことの様に同じく感じているということが、ようやく分かった今日この頃。 「放射線酔い」を検索すると、「放射線宿酔」という言葉がヒットしました。読むと、私のこれまでの症状が全部載っていました。 2日目のタイミングで技士さんに「そういう方も中にはいらっしゃいます」と即答された時、そして、「何日かで慣れると思います」と続けられた時に、私はすごくホッとしました。 少数派かもしれないけれど、他にも経験した人がいる。そのことが放射線科では認識されている。しかも数日で消えるという希望。 高校生の時に国語の教科書で読んだ「何事にも先達はあらまほしきことなり」という言葉。 この病気の治療、向き合い方に際して、これまでで一番実感しています。 「先達」と、「今、共感できる、そして同じ時期に近い境遇にいる存在」と、「自分のことを案じてくれる人」。 ありがとうございます。
作成日 : 2020-06-13 05:59:11
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ローストビーフと指輪(放射線スタート)
予約時間が近づくと、放射線技師の方から改めて丁寧な説明があり、「66Gy」ということが分かりました。 これから30日間です。 そこで「20日にお面を作らせて頂いたんですが、今日はあの時より更にきつくなっています。」と言われたので、型取りの時に数秒パニックになった話をすると、 隣から夫が「穴を開けたり出来ないですか?」と。 (「日記に不安なことを書いたら、鼻と口に穴を開けてもらえたよとアドバイスを頂いて気持ちが楽になったから、今後またパニックになったら相談してみる。少し緊張取れたよ。」と話したばかりでした。) 技師さんから「前回は急に型取りと言われて、きっと緊張されていたこともあると思います。穴は開けられるのですが、位置がずれると困るので眉間と鼻と顎は固定したい。ただ、少しでも楽に治療を終えて頂きたい。様子を見ながら調整していってもいいですか。」とお返事頂いたのに、いざ時間になって看護師さんに案内されたら、技師さんが口のところに穴を開けて下さってる最中でびっくり!! いずれもベテランという感じの技師さん1名、看護師さん3名が、マスクを被せたり頭部を手で微調整したり…「きつですよね」「きついですよね、少し緩めますからね」「もしかしたらこのまま頑張れそうですか?」「それならこのままに越したことはないので良かった!」と。 おそらく前回「息が吸えない」と思ったのは顔面だけでなく喉や胸元の圧迫感という実感があったのですが、今日は前回よりきついはずなのに、「やっぱりこれ以上無理に吸おうとしたらパニックになりそうだから、浅くこのまま。」とコントロール出来ました。 経験と口の開放感のおかげ!! その後、声をかけて部屋を出るとアベマリアがワンフレーズほど流れ、機会音もたっぷり聞こえ、ライト照射! いよいよなんだな、と、思った時に、お会いしたことないのにCPの皆さんの存在を感じて、すごくエールをもらっている感覚でした。 「みんながいる!」と新参者のくせにすごーく力を頂き、この照射で癌細胞消えて!と念じながら、自分の体にエールを送りながら、そろそろ終わりかな?と思ったところで、 「それでは調整が終わったので、これから照射に入りますね」 ∑(゚Д゚)フライング念力!! 話には聞いていたけれど、調整ってこんなに長いんですね(〃ω〃) 2回目の自己暗示をかけながら、照射終了。 勘違いのせいで長く感じましたが、テキパキ着替えて「お面の型がついちゃってるけど取れるからね笑」「こんな感じだけど大丈夫だった?」と次々声をかけて頂きながら 「大丈夫です!全然問題ないです!」 と大股に部屋を出て、更に技師さんから 「目のところにも穴を開けますか?随分開放感が得られると思います」 「デメリットは?」 「ありません」 との事だったので、明日から「照射中、目を開ける派」になるかもしれません。 治療が終わったら遅めの昼食を取る予定でしたが、何だか胸焼けが… 明らかに口数が減り、心配する夫に「お昼を食べてないからかも。」と言われ、会計や書類受け取りや何だかんだ終わって15時にようやくお昼。 翌日以降久しぶりに大学病院まで自分で運転するので、帰りは3ヶ月振りに病院からの道を運転させてもらいました。 帰宅すると、倦怠感、微かな喉の痛み、頭痛、胸焼け。 ちょうど息子が眠ったところだったので、一緒に隣で眠らせてもらい、1時間に娘に起こされた時には少し楽に。 しんどいけれど、午前中時間切れで夜出直すからと診察を伸ばしていたリハビリの病院へ送ってもらい、帰宅したら夜。 全然食欲ない… 船酔いした時みたいな、つわりのときみたいな、ずーっと引かない安定した胸焼け。 よりによって今日は、私が夫に「放射線治療の前に食べたいものは?」と尋ねられる度にリクエストしていた大学病院前のお店のローストビーフを、夫が予約して取りに行ってくれたのに… 入院中の絶食期に書いた食べたいものリストにも挙げていたローストビーフなのに… 入浴したら少し楽になり、まさかたった一回の照射で疲れるとは思ってなかったので内心凹んだけど、「喉の痛みで食べれなくなるまでは頑張らなきゃな」とあがると、夫も母も食卓についたまま口をつけてない! 分かりやすく凹んでいる。 私が落ち着いて食卓に座るのを待って、「冷めても美味しいね。」と言いながら食べたローストビーフ。 一晩眠ると胸焼けがなくなり、喉の痛みと倦怠感だけに。 午前中も母に子供たちをみてもらって1時間ほど昼寝。 実は放射線は関係ないかも。退院してから毎日チャンスさえあれば1〜2時間眠ってしまう。夜も眠っているのに… 2日目の今日は、あっという間。目が大きく開いていたので何でも見れるし、息苦しさもずっと楽に。 昨日の様子を話すと、 「副作用とも緊張のせいとも言い切れないのですが、本当に個人差があって、そういう方もいらっしゃいます。船酔いのような。」 「一緒です!」 「2、3日で慣れてきます。横になると感じにくいようです。」 1回目から変化を感じる人もいるんだな、という安心感に、昨日ほど急には感じない吐き気。 昨日より短く感じた治療時間に、開放的なマスク。ありがたい… 1日目昼食(照射1) ・飲むヨーグルト ・ハムサンドイッチ一切れ ・シュークリーム 1日目夕食 ・ご飯 ・サラダ ・念願のローストビーフ ・ポテト 2日目朝食 ・ご飯少量 ・味噌汁(人参、小松菜、麩) ・生卵とひきわり納豆 2日目昼食 ・ご飯少量 ・ローストビーフ2枚 ・ポテト少し 昼前に大学病院に行く時、折紙で(ほぼ夫が)作ったエメラルドの指輪を娘が私の小指にはめてくれました。 放射線科の前の歯科で、荷物を降ろした際、指輪が落ちてしまい、衛生士さんもいらっしゃるしおそらく鞄の中だろうと思って後で探すも見つからず(涙) 帰宅して「指輪はー?」と無邪気に聞いてくる娘の両肩を持って「ほんとにごめん!」と訳を話すと、「なんだ、大丈夫!また折ってもらったらいいんやから!謝らんでいいよ。」と。(夫に謝るべきやったんかな笑) 昼寝していると、「ママ、指輪だよ!」と起こされたのでした。メッセージに眠気も吹っ飛んだけど、その後母宛のを読んだら「く」が頻繁で難解度が上がってました(о´∀`о)
作成日 : 2020-06-04 14:24:17
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ビバ羞恥心 (放射線開始前夜)
明日はムネリンの誕生日。 大学生の時に一目惚れしてから、 (TVの向こうに。 野球のこと全然わからないのに。プレイがかっこよすぎて。) 時に背中を押され、 (TV越しに勝手に。 退職後、「証明書」が届くまでは春休みだ!と開き直ったくせに実際離職1週間目にもう焦ってしまい、「同い年なのに片や日本を代表し、片や・・・」みたいな『同い年』以外むしろ共通点全くないのに勝手に比較して落ち込んで一人でTV見ながら泣いて・・・なぜか背中を押されて行動に出たら翌日希望職に就職が決まって、その後12年間続く関西での生活がスタートしました。その職はその後京都に越すタイミングで辞めることになりましたが。) 時にその笑顔に癒され、 (・・・TVで。ホークスファンの夫がムネリンの写真集を買ってくれた時には戸惑い、実はまだ開いていません。異性の写真集贈るかなぁ。) そんな彼の誕生日に、放射線治療が始まる~(こじつけ) 手術も怖かったけど、放射線も怖い。 何が怖いんだろうと最近自問自答しているけど、やっぱり副作用かなぁ。 初日から副作用は感じないと思うけど、ぬぐえないこの緊張感・・・怖いのは副作用じゃなくて閉所かな。 いやでも、放射線科の初診の数日前からいよいよ緊張感強くなってるから、放射線という大きなインパクトかな。 2週間前が放射線科の初診で、歯科でスペイサー、そして放射線科でマスクを作って頂いたけど、マスクがきつかった。 「閉所恐怖症ですか」と確認される度に「違います」と回答してきたけど、顔面から胸の上部にかかるマスクの型取りをしてもらっているときに、数秒「息が吸えない!」とパニックになった。息は吸えるようになったし、きっと実感するよりすごく短い時間だったんだろうけど、怖かった・・・ もしかしたら、閉所恐怖症?? CTやMRIくらいの余裕があるスペースは大丈夫だけど、密着マスクレベルの閉所は怖い、みたいな。 入院中に同じ部屋の2人から伺った放射線の経験談。2人が「熱かった」と言った型取りは、正直「温かくて気持ちいいなぁ」という感想だった。すでに個人差もしくは気温差。 「照射中、目を閉じる派」と「開けておく派」に分かれていたなと思って、目を開けてみたけど、マスクが狭くてあまりはっきり開けられなかったし、閉じると視界からの情報がなくなって反対に少し安心した。普段は好奇心が勝って大抵目を開けているけど、マスク着用中は目を閉じる派に入ろう。 うちお1人は私と同じ回数で、「とにかく分刻みにスケジュールされていてたくさん人が並んでいるから、急いで着替えなあかんと思って。してくれはる人によって、マスクがきれいにハマる時と、少しずれる時があって、でもそんなこと言われへんからそのままつけてるんやけどね。痛いことは何にもないんよ。位置の調整に時間がかかるだけで、照射されてるんは5分もないくらい。」と話して下さったけれど、「人を待たせないようテキパキ出来るかな」とか、「マスクずれたままの数分間に耐えられるかな」、とか聞いているだけで緊張。きっと型取りで「息苦しい」恐怖を感じてしまったから、これで更に装着がずれたらどうしよう、という不安だ。 入院期間中のうち2週間隣のベッドで、「私が最後まで出来たんやから(年齢が半分やし)きっと大丈夫やわ。」「個人差があるから、副作用も軽いかもしれへんよ」「放射線科の看護師さんがみんな優しくて、毎日励まして下さるんよ。」と、いつも数か月先の治療にビビる私を安心させるためにかけてくださった、その言葉を信じたい気持ちもまだまだある! 「放射線治療が始まったら思うように食事がとれないから、始まる前に食べて体力をつけておいて」もその方にもらったアドバイス。 この治療に備えて福岡から母が泊まり込みで来てくれたというのに実際の治療開始はかなり遅くなったけど、でもその間ほぼ毎日母の手料理を食べられたので、このアドバイスだけは守れた!! 初診の前から緊張していたことは夫にばれていたらしく、初診に仕事を休んで付き添ってくれるというので「今回は検査もないから深刻な話もないんだから大丈夫だよ」と断ったものの当日は緊張MAXで、付き添ってくれて随分心強かった!! そして、明日も付き添ってくれると休みも取っちゃってるので、もう甘えようかな!初日さえ経験すれば、明後日以降は大丈夫なはず! もう一つあった。。。漠然と抱えているモヤモヤ。 この治療が終わったら、戻る予定で休みをもらっている(といっても、休暇制度はないので欠勤。半年毎の契約を自動更新してもらっている模様。)6h×週5日の仕事に復帰予定。 仕事に戻るか、辞めるか。 3月に休み始めてからずっと迷っていたけど、全然答えが出ない。 いろんな懸念事項がどちらにしても浮かぶし、本音が自分でも見えない。 でも、手術後は「復帰なんかできるわけない」と思っていたのに、今、迷えるということは、機能回復面に自信がついた証拠でもある。 放射線治療を終える時には、また何か状況が変わっているかもしれないので、それまで答えを出すことは焦らずにいこうとも思う。 あぁ、昨日の電話である人から職場復帰のタイミングを尋ねられたからモヤモヤし始めたのか、そうか。(やっと自覚) 打ってる間に、ムネリンの誕生日当日になりました。おめでとうございます。 病気でも、病気じゃなくても、みんなそれぞれの課題に日々向き合って、楽しいだけじゃない一日を乗り越えている。 私なんか、こんな大人になってまで家族にめちゃくちゃ優遇されて、パート職だけど「待ってるよ」と言ってくれている人もいて、何より、治療を受けることができる。 閉所や、まだ始まってもいない副作用にビビってる場合じゃないなぁ。 でも、治療が進むとまた弱気になるかもしれないので、モヤモヤしている脳内を勝手に整理し始めたり、弱音を吐いたりしたいと思いますm(__)m 夜型人間じゃないのに夜文章書いたりして、朝には恥ずかしいと思ったりミスに気づいたりしているのかもしれませんね。羞恥心で緊張和らげ!
作成日 : 2020-06-03 00:45:11
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ありがとサンキュー!!
今日、39歳になりました。 毎年恒例、同じ誕生日の父に電話。 京都と福岡、なかなか会えないけど父の明るい声を聞く度こちらまで元気になる。 3日程前から毎日カウントダウンしてくれていた5才の娘は、昨夜レターセットを出して、 「ママにお手紙書いてあげるね! 早いけど今日欲しい? じゃあ明日まで見たらあかんで。 明日は早起きしてや、お誕生日やからな。 あっちゃんが『おきて』って言ったらすぐに起きてな! 絶対やで。 どこにお手紙あるか探してや。 あっちゃんヒントあげる! ケーキも食べれるで! プレゼントもあんで!! プレゼントは… パパ、プレゼントはいつ渡すん?晩ご飯の時?わかった。 ママ、プレゼントは晩ご飯の時な! それまで何あげるか内緒やで! お楽しみやからな!」 パパは計画が漏れまくって残念そうでしたが、私は翌日のことを考えて計画的に自主的に行動出来る娘の成長が嬉しくて感激。 夜眠る時もずっとワクワクしていて、 「ママ、明日お誕生日やね! おめでとう!! また明日もおめでとうって言ってあげるしね! どうしよう、めっちゃ楽しみ!!!」 (静かに目を閉じて数分後) 「…ママ、もし眠らんかったらどうなるん?」 と不意に初めての質問。 「うーん。寒くなって体冷えたら怖くなってくるかも。寝た方がいいんちゃう?みんな眠ったら1人になるし。」 と適当な返ししか出来なかったけど、 「じゃ、寝よ」とあっさり眠ってくれました(´ー`) 娘があまりにも楽しみにしてくれているのが嬉しくて、何だか昨日からすごくhappy(〃ω〃) 言葉は得意、数字が苦手、という娘は、親の年齢を覚えるのも一苦労。 しょっちゅう「ママ何才?」と聞かれて場所によっては回答を躊躇っていましたが、今朝同じことを聞かれたので 「ありがとサンキュー、39才!」と言ったら、とりあえず今日1日は覚えていました。 また、私の放射線治療に備えて、先週から長期で泊まりに来てくれた母と、十数年振りに一緒に迎えた誕生日。 ここ数年は確執もあり、2年近く全く会っていなかったので、告知されてから伝えるかをすごく悩んでいたのですが、伝えてからは頻繁なメールのやりとりが復活し、こうして素直に甘えられるんだなと思うと、伝えてよかったと思います、あくまで私にとっては。母にとってはどうだろう… しかし、よりによって今日、会話の中でうっかり「ステージ」という単語を口にしてしまい、「しまった」と思った時には遅く、 「…何、ステージってもう分かっとうと?」 「…」(でも答えなかったらそれも同じ回答だ)、と思い切って伝えました。 つい私も涙が出て顔が見れなかったけど、タオルを手渡してくれた母の目が真っ赤。 その後しばらく子ども達にバレないように泣いていました。 母がいよいよ落ち込んだらどうしようと思ったけど、それが怖くてこれまで伏せていたけど、その後部屋に引きこもることなく、10分くらいで私や子ども達のところに戻って来てくれました。 私が生まれた時刻に母からも娘からも、そして真似しんぼうの息子からも「おめでとう!」と言ってもらえて、母にも素直に「(出産)お疲れ様でした。産んでくれてありがとう。」と言えて、今まででもしかしたら一番忘れられない誕生日かも… 昨日は入院以来2ヶ月振りに、娘と一緒のシャワー浴。 前腕遊離皮弁手術後、左腕がかなり不自由で痺れと痛みが強かったため、子ども達の入浴を夫に任せていたけど、左腕で洗いにくい私の右腕や背中を娘が洗ってくれて感激。 ずっとお喋りしてるので久しぶりにシャワーの時間が楽しくて。 自信もついて、今日は息子も一緒に3人で。 すると「〇〇の!」と言ってシャワーヘッドを私から取り上げようとし、揉み合ってシャワーは娘の顔を何度も直撃。 奪取して娘の髪を流していたら、断乳から半年以上経つのに不意に息子が食いついて来て、びっくりするわ、噛まれないか怖くて逃げるわ、息子しつこいわ、さすがに娘も爆笑するわで大騒ぎ。 息子と揉み合ってる時に、普段覆っている私の左腕患部は何度も直に触られるし、今までなら怖さが優ったはずだけど、最終的に3人とも笑ってるし、洗いあげて一旦浴室から出した息子が、私が片付けてあがるまでずっとタオル巻き姿で待ってくれてるし、入浴一つでこんなに楽しめるとはε-(´∀` ) 母の手料理の後は、夫が無理して買いに行ってくれたケーキ。しかもホール。 毎回上の苺しか食べない子ども達が、なぜか今日はケーキも食べ、 「あっちゃん今日初めてケーキも美味しいと思った!!」と言ったから、22日はケーキ記念日。 夫が「本当はもう一つ、あっちゃんと〇〇からのプレゼントがあったんやけど、今日間に合わんかった!ごめん」と、悔しそうに娘並みに事前に報告してくれました。 サプライズが好きなんだけどなー、と伝えて14回目かな?ですが、まだサプライズしてもらえたことはありません∑(゚Д゚) でもここのところずっと考えてくれて「バッグかなぁ、服かなぁ」と言うので、「本当に思いつかないよ。通院以外あんまり使う機会ないかもしれないし…」と正直に答えてしまって夫に悲しい顔をさせてしまったのですが、結果選んでくれた贈り物が部屋着だったので、「今の、なかなか外出出来ない癌サバイバーとしての私を肯定してくれているんだなぁ」って感じて嬉しかったです。 部屋着自体は可愛すぎて自分のテイストと違って&お腹のシルエットが誇張されて恥ずかしいけど…とか思う私は、サプライズを希望出来る性格じゃないな。 今日は絶対詳細まで忘れたくない!!と思ったので、ダラダラ書いちゃいました。 おととい放射線科の初診でマスクを作り、2週間後放射線治療がスタートします。 入院中に、「誕生日は治療中なんだなぁ」と思っていたのが、まさかの平和な1日。 しかも家族みんなに祝福されて、幸せな1日。 誕生日はやっぱり特別で、大好きな人に祝福されたら嬉しい! 今年は娘にどこで年を聞かれようが、フォルテ気味に答えようと思います(`_´)ゞ
作成日 : 2020-05-22 23:58:36